第5章

「待って!」

 静寂を破る、よく通る声が響いた。

 ヴェロニカが足早に近づき、セレステの腕をそっと支えながら、エリザベス夫人に微笑みかける。

「奥様、どうかお姉ちゃんを許してあげてください。最近、少し精神的に不安定で……お医者様からも重度のうつ病だと診断されているんです。時々、自分の行動を制御できなくなることがあって」

 一見、セレステを庇っているかのような言葉だった。しかし、その耳障りな病名が、招待客たちの目にある侮蔑の色をより一層濃くした。

 何人かの貴婦人が視線を交わし、再びひそひそと囁き合う。

「うつ病ですって? ただの狂言じゃないの」

「そんな言い訳で責任逃れしようなんて、本当に浅ましいわね」

 エリザベス夫人は冷笑を浮かべた。

「うつ病? 私には通用しないわよ。過ちを犯したなら責任を取る。それが最低限の教養というものでしょう!」

「おっしゃる通りです。教養は当然重んじるべきですわ」

 ヴェロニカの声は相変わらず穏やかだったが、その言葉は一つ一つが鋭い刃のようだった。

「ただ、お姉ちゃんはエミリ姉さんが亡くなってからというもの、ずっと情緒が不安定で……。両親もルシアンさんも、ずいぶんと心を痛めてきました。奥様、今回だけはどうか大目に見ていただけませんか。きっと天国のエミリも、お姉ちゃんがこんな風に責められるのを見たくないはずですから……」

 エミリの名が出た瞬間、広間の空気が凍りついた。

 誰もが五年前のあの惨劇を思い出し、セレステに向ける眼差しはさらに氷のように冷たく、刺々しいものへと変わる。

 ルシアンは眉をひそめ、その瞳からは今にも零れ落ちそうなほどの嫌悪感が滲み出ていた。

 ヴェロニカは絶妙なタイミングで彼の腕にすがりつき、そっと囁く。

「ドン、もういいじゃないですか。お姉ちゃんも反省しています。少しは顔を立ててあげましょう?」

 ひどく下手に出た、底抜けに善良で寛大な振る舞い。

 その言葉の裏に「セレステは恩知らずだ」という強烈な当てこすりが隠されていなければ、セレステ自身でさえ、彼女が本気で心配してくれているのだと錯覚してしまいそうだった。

 ルシアンは虫ケラでも見るような目でセレステを一瞥した。

 やがて、彼はエリザベス夫人に向かって頷いた。

「奥様、今夜の非礼は必ず埋め合わせをいたします。そのドレスの代わりに、パリの最高峰のデザイナーに新しいものを仕立てさせましょう。それでいかがですか?」

 エリザベス夫人はそこでようやく渋々といった様子で頷いたが、それでもセレステをきつく睨みつけた。

「このお優しいお嬢さんに免じて、今回は水に流してあげるわ。でも、身の程というものを弁えるべきね!」

 宴は再開されたが、刺さるような軽蔑の視線はどこまでも付きまとってきた。

 セレステは無言で広間の隅へと退き、いっそ暗がりを見つけて自分を隠してしまいたかった。

 そこへ、不意にヴェロニカがやって来た。

「お姉ちゃん、大丈夫? すごく顔色が悪いみたいだけど」

 セレステは首を振り、何も口にしなかった。

 実際、胃の腑が鈍く痛み始めており、額にはびっしりと冷や汗が浮かんでいた。

「お水、飲む?」

 ヴェロニカはグラスを差し出し、もう片方の手で優しくセレステの背中をさする。

「辛いのはわかるけど、もっとしっかりしなきゃ。こんな姿を見たら、エミリだって悲しむわ」

 ――また、エミリだ。

 セレステの手が震え、グラスの水がこぼれそうになる。

 これ以上、ヴェロニカの白々しい芝居に付き合う気力はなかった。グラスを置き、どこか座れる場所を探そうとしたが、ヴェロニカに腕を掴まれた。

「お姉ちゃん、本当に具合が悪そう。控え室で少し休む? 私が付き添うから」

 セレステは拒絶するようにその手を振り払う。

「いいの……私は大丈夫だから」

「だったら、せめて何か食べるものを持ってくるわ。今夜、何も口にしてないでしょう?」

 そう言いながら、ヴェロニカの手は傍らに置かれていたセレステのハンドバッグへと伸びた。

「ちょっとお菓子をもらってくるから、ここで待っててね」

 彼女の手は数秒間バッグの上に留まり、ごく自然な動作でファスナーを開け、そして閉めた。

 その一連の動きは目にも留まらぬ速さで、めまいを感じて目を閉じ、こめかみを揉んでいたセレステは、まったく気づくことができなかった。

「本当に、いいのに……」

 セレステはなおも断ろうとしたが、ヴェロニカはすでに足早にビュッフェテーブルへと向かっていた。

 数分後、ヴェロニカは可愛らしい焼き菓子が乗った小皿を手に戻ってくると、半ば強引にセレステの手に押し付けた。

「少しでもお腹に入れないと、倒れちゃうわよ」

 セレステは手の中の菓子を見つめた。食欲など微塵も湧かなかったが、その時、遠くからルシアンの氷点下の視線が突き刺さるのを感じた。

 ――この厚意を無下にするな。

 彼がそう警告しているのだとわかった。

 セレステは無理やり一口だけ飲み込んだ。

 甘ったるい菓子が口の中で溶けていくが、ひどく苦い味がした。

 宴は、ようやく真夜中になって終わりを迎えた。

 最後の客を見送った時には、セレステは立っているのもやっとの状態だった。

 それでも力を振り絞って片付けを手伝おうとしたが、執事に冷たくあしらわれた。

「奥様、ルシアン様よりお部屋でお休みいただくよう申し付かっております。こちらに奥様の手は必要ございません」

 それはまるで、邪魔な使用人を追い払うかのような口調だった。

 セレステは反論する気も起きず、黙って階段を上った。

 広間を通り過ぎる際、バルコニーに立つルシアンとヴェロニカの姿が目に入った。二人は身を寄せ合い、親しげに言葉を交わしている。

 ルシアンを見上げるヴェロニカの顔に月明かりが落ち、その横顔が一瞬、エミリの面影と重なった。

 セレステは心臓を鷲掴みにされたように息を呑み、慌てて目を逸らすと、逃げるように寝室へと急いだ。

 着替える気力すら残っておらず、そのままベッドに崩れ落ち、身体を丸める。

 胃の痛みは容赦なく激しさを増し、誰かの手で内臓をねじり上げられているかのようだった。

 薬を飲まなければと思うのに、鉛のように重い身体はぴくりとも動かない。

 唐突に、ドアが開いてルシアンが入ってきた。

「起きろ」

 その声は、凍てつくように冷酷だった。

 セレステは苦痛に顔を歪めながら、どうにか上半身を起こす。

「……何か、用?」

 消え入るような声で尋ねた。

 ルシアンは答える代わりに、ベッドサイドのランプを点けた。

 薄暗い光に照らし出された彼の顔は、ぞっとするほど険しかった。

 彼の手には、一本のネックレスが握られている。

 輝くシルバーのチェーンに、ハート型のピンクダイヤモンドのペンダントトップ。周囲にはメレダイヤがびっしりとあしらわれ、ランプの光を受けて優しくきらめいている。

 セレステの呼吸が、ぴたりと止まった。

 それは、エミリのネックレスだった。

 ルシアンがエミリの十八歳の誕生日に贈ったもので、彼女が何よりも大切にし、肌身離さず身につけていた宝物だ。葬儀の日、母親がエミリの棺の中にそっと納め、永遠に彼女に寄り添うはずだったものだ。

 それがどうして、ここにあるのか。

「説明しろ」

「わ……わからないわ……」

 セレステは呆然と首を振り、頭の中が真っ白になった。

「どうして、それがあなたの手にあるの?」

 ルシアンは乱暴にネックレスを彼女の目の前に突きつけた。

「お前のバッグに入っていたんだよ。セレステ、死人のものまで盗むとはな。心底反吐が出る」

「違うわ!」

 セレステは必死に叫び、立ち上がろうとしたが、力が抜け落ちて再びベッドに倒れ込んだ。

「盗んでなんかいない! エミリのものに触れたことなんて一度もないわ! あなただって知ってるでしょう、私はあの子の部屋に入ることすら怖くてできないのに!」

「なら、なぜこれがお前のバッグに入っていた?」

 ルシアンは冷酷に言い放つ。

「自分から歩いて入ったとでも言うつもりか?」

「知らない……本当に、何も知らないの……」

 セレステは狂ったように首を振り、涙が堰を切ったように溢れ出した。

「今夜、私のバッグに触ったのはヴェロニカだけよ。お菓子を取ってくるって言って、もしかしたら……」

「黙れ!」

 ルシアンが咆哮し、彼女の首を鷲掴みにしてベッドに押さえつけた。

「まだヴェロニカを陥れる気か? 彼女は今夜、ずっとお前を庇い、助け舟を出してくれたんだぞ。それをお前は、こんな卑劣な真似で恩を仇で返すのか!」

 首を絞め上げられ、セレステは息ができなくなった。力なく彼の手を叩くが、びくともしない。

 視界の端が急速に暗く染まり、耳の奥で激しい耳鳴りが響き始める。

 薄れゆく意識の中で、ルシアンが下した冷酷な判決が聞こえた。

「こいつを地下室へ放り込め」

「いや……やめて!」

 窒息寸前だったセレステは、死に物狂いで暴れ始めた。

 地下室――。

 そこには三頭の獰猛な闘犬が飼われている。結婚して間もない頃、彼女は一度そこに放り込まれたことがあった。丸一週間閉じ込められ、外に出された時、彼女は片足を失いかけていた。

 激痛が頭皮を走る。髪を掴まれ、引きずられるようにして、あの陰惨な地下室へと投げ込まれた。

 暗闇の奥で、幾つもの緑色の眼光が彼女をねめつけている。

「嫌! 出して、お願い!」

 セレステは絶叫しながら出口へ這い寄ろうとしたが、分厚い鉄の扉は無情にも重い音を立てて閉ざされた。

 次の瞬間、三頭の獣が猛々しく吠え猛りながら、彼女めがけて襲いかかってきた――。

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