第6章

 生臭い鼻息が顔に吹きかかる。

 セレステは部屋の隅にうずくまり、必死に自らの身体を庇っていた。

「こ、来ないで……お願い……」

 犬に哀願など通じない。

 黒い影が飛びかかってきた。

 セレステは悲鳴を上げ、本能的に腕を突き出して防ごうとしたが、重い体躯がぶつかり、床へと激しく叩きつけられる。

 後頭部をコンクリートに打ち付け、目の前に火花が散った。

 直後、腕に鋭い痛みが走る。

 牙が皮膚を易々と貫き、温かい血がどっと溢れ出した。

「あっ!」

 彼女は無我夢中で蹴りを放ち、もう片方の手ででたらめに掻きむしる。

 だが、野獣の前に人間の力など無に等しい。

 もう一匹の犬が加わり、彼女のズボンの裾に噛みついて狂ったように引きちぎり始めた。

 三匹目は周囲をぐるぐると回り、喰らいつく隙を窺っている。

 鋭い痛みが全身へと広がっていく。だが、痛みよりも恐ろしいのは、この圧倒的な無力感だった。

 まるで標本箱にピンで留められた蝶のように、ただバラバラに引き裂かれる運命を待つしかない。

 ――どうして、生きているのだろう。

 その思いが、唐突に、そしてひどく鮮明に脳裏をよぎった。

 もしこのまま死ねたら。この犬たちに噛み殺されれば、すべて終わるのではないか。

 エミリー、お姉ちゃんもそっちへ行くからね。それでいいよね?

 彼女は抵抗をやめ、腕を力なく下ろすと、静かに目を閉じて終焉を待った。

 だが、犬たちはふいに動きを止めた。

 数歩下がり、彼女の周りをうろうろと歩き回る。

 訓練された彼らは、獲物の反抗と降伏を嗅ぎ分ける。しかし今の彼女の状態は、与えられた命令の範疇にはなかったのだ。

 セレステは冷たい床に横たわり、荒い息を吐いていた。

 どれほどの時間が過ぎたのか。失血と地下室の底冷えが、じわじわと意識を奪っていく。

 朦朧とする頭の中に、いくつかのひび割れた記憶の断片がフラッシュバックした。

 湿った路地裏。幼いルシアンが額から血を流して倒れ、年上の子供たちに囲まれて蹴りつけられている。

 彼女はゴミ箱の陰に隠れ、恐怖に震え上がっていた。けれど、彼が痛めつけられる姿を見て、どこから湧いたのかわからない勇気で石を拾い上げ、投げつけた。

「警察が来た!」

 甲高い声で叫んだ。

 子供たちは蜘蛛の子を散らすように逃げていく。

 彼女は駆け寄り、ルシアンの傍らに膝をついた。

 彼が薄く目を開け、焦点の定まらない瞳で彼女を見る。

 小さなマーガレットが刺繍されたハンカチで、彼女は不器用に彼の傷口を押さえた。

「怖がらないで。わたし……パパを呼んでくるから……」

 やがて駆けつけた父親が、ルシアンを背負って病院へ運んでくれた。

 その後、ルシアンの家族が彼を迎えに来た。去り際、彼は振り返って彼女を見つめ、何かを口にしたような気がする。

 ――なんて言ったんだっけ?

 唐突に、映像が砕け散った。

 セレステは重い瞼を瞬かせた。顔にこびりついた汚れた血を、ひとすじの涙が洗い流す。

 幻覚に決まっている。自分がルシアンを救ったことなどあるはずがない。

 もし彼が覚えているのなら、どうしてこんな酷い仕打ちをするというのか。

 鉄扉の向こうで足音が響いた。

 続いて、鍵を開ける金属音。

 セレステはびくっと身体を強張らせ、犬たちも警戒して耳を立て、扉の方を振り向く。

 扉が開き、一筋の光が差し込んで、セレステの目を容赦なく射抜いた。

 逆光の中に、優雅なシルエットが立っている。母のイザベラだ。

 母はハンカチで口と鼻を覆い、薄暗く不衛生な地下室を忌々しげに見回すと、床にうずくまる血まみれのセレステへと視線を落とした。

「出なさい」

 案内してきたボディガードに向かって、母は冷たく言い放つ。

 ボディガードは一瞬ためらい、母の背後へ視線を向けた。

 暗がりの中、ルシアンが壁に寄りかかり、両手をポケットに突っ込んだまま無表情で立っている。

 彼がわずかに顎を引いた。

 ボディガードが足音を殺して退出する。

 三匹の犬はルシアンの姿を認めるや否や、ちぎれんばかりに尻尾を振って駆け寄り、彼の足元に大人しく伏せた。

 母はようやく中へと足を踏み入れたが、セレステから数歩離れた場所で立ち止まり、それ以上は近づこうとしなかった。

「その惨めな姿は何」

 イザベラの声には、隠しきれない嫌悪が滲んでいた。

「コスタ家の顔に泥を塗る気」

 セレステはもがくように身を起こそうとしたが、腕の激痛で力が入らない。何度か試みては崩れ落ち、結局、無様な姿で仰向けのまま母を見上げるしかなかった。

「お母さん……」

 掠れた声で呼ぶと、再び涙が溢れてきた。

 それが悔しさなのか、痛みなのか、それとも絶望なのか、自分でももうわからなかった。

「その口で私を母と呼ぶな」

 イザベラは氷のような声で遮った。

「お前がエミリーを殺したあの日から、私にお前という娘はいない」

 これまで数え切れないほど聞かされてきた言葉。だが、そのたびに、真新しい刃となって同じ傷口を正確にえぐってくる。

 セレステは目を閉じ、ただ涙が流れるに任せた。

「今日ここへ来たのは、お前のその哀れな顔を見るためじゃない」

 イザベラは高級なハンドバッグから書類とペンを取り出した。

 身をかがめ、セレステの傍らの床にそれを放り投げる。

「サインしなさい」

 セレステは目を開け、書類に視線を落とした。

 遺産放棄声明書。

「これは……何?」

 息も絶え絶えに尋ねる。

「お前の父親が遺言を書き換えるのよ」

 イザベラは背筋を伸ばし、見下すように彼女を冷視した。

「本来お前に渡るはずだった遺産は、すべてヴェロニカに譲渡される。これにサインすれば、お前とコスタ家は完全に縁切れよ」

 セレステは息を呑んだ。

 母を見上げ、そして暗闇に佇むルシアンを見た。

 彼は相変わらず能面のような顔で、目の前の出来事など一切関係ないというように立ち尽くしている。

「どうして? パパは……」

「よくも父親の口がきけたわね」

 イザベラの声が突如としてヒステリックに跳ね上がった。

「あの人がこの五年間、どうやって生きてきたかわかっているの! 毎日エミリーの写真を見ては泣き崩れ、髪もすっかり白くなってしまったわ。エミリーの墓前に行くことすらできないのよ。行けば、お前がどうやってあの子を殺したかを思い出してしまうから!」

「ちがう……」

 セレステは弱々しく首を振った。

「違うですって?」

 イザベラはしゃがみ込み、セレステの胸ぐらを乱暴に掴み上げた。

「あの日、家出をしたのはお前でしょう! エミリーが港へ行ったのは、お前を探すためだったじゃない! 私の立派な娘はこうして生きて帰ってきて、私のエミリーは、あんなに優しくて可愛かった私のエミリーは、冷たい骸になって帰ってきたじゃないの!」

 叩きつけられる言葉の一つ一つが、冬の軒下から落ちてくる氷柱よりも鋭く、心を容赦なく串刺しにしていく。

「私は毎晩悪夢を見るわ。血まみれのエミリーが私に聞くのよ。ママ、お姉ちゃんはどうして私を助けてくれなかったの? どうして死んだのがお姉ちゃんじゃなかったのって」

 イザベラの瞳から涙がこぼれ落ち、セレステの頬を打った。

「セレステ、私も聞きたいわ。どうして死んだのがお前じゃなかったの? どうしてお前だけが生き残って、私たちの人生をめちゃくちゃにし続けるの」

 セレステの心は、完全に砕け散った。

 口をぱくぱくと動かしても、声は出ない。ただ止めどなく涙が溢れ続けるだけ。

 母の言葉は、この五年間、彼女が来る日も来る日も自分自身を責め続けてきた心の声そのものだった。

 そうだ。なぜ自分が死ななかったのか。なぜ自分だけが生き残り、この生き地獄を味わわなければならないのか。

「サ・イ・ン・し・ろ」

 イザベラは手を離し、床の書類を指差して憎々しげに吐き捨てた。

 セレステは震える左手を伸ばし、床に落ちたペンを拾い上げた。

 ペンはひどく重く、うまく握ることすらできない。

 白い紙に黒々と印字された文面には、彼女が不動産、株式、信託基金を含むコスタ家のあらゆる相続権を自発的に放棄する旨が記されていた。

 腕の震えが止まらず、ペン先が紙の上でめちゃくちゃな軌跡を描く。

 何度かやり直し、ようやく最初の文字を書き付けた。

 一筆書き進めるごとに、自分の肉を削ぎ落とされているような痛みが走る。

 それでも、手は止めなかった。

 これが母の望みであり、もしかしたら父も黙認していることなのだ。

 自分にはもう、あの家に居場所などない。

 罪深き者に、遺産を受け取る資格などあるはずがないのだから。

 最後のアルファベットを書き終えると、糸が切れたように力が抜け、ペンが床へと転がり落ちた。

 イザベラは素早く書類を拾い上げ、サインを確認すると、丁寧にバッグへとしまった。

 セレステに一瞥もくれることなく、きびすを返して歩き出す。

 扉のところでふと足を止めたが、振り返ることはなかった。

「二度と戻ってこないで。コスタ家に、お前の居場所はないわ」

 扉が開き、そして閉ざされる。

 ハイヒールの足音が、冷たい廊下の奥へと消えていった。

 ルシアンは暗闇の中でしばらく立ち尽くしていたが、やがて短く口笛を吹いた。

 三匹の犬が立ち上がり、彼に従って地下室を出ていく。

 セレステは冷えた床に横たわったまま、身動き一つしなかった。

 引き裂かれた腕の痛みも、全身の打撲も、心にぽっかりと開いた巨大な空洞に比べれば何でもない。

 その穴はあまりにも大きく、冷たい風が吹き荒れ、わずかに残っていた体温さえも奪い去っていく。

 ――もう、私には何もない。

 妹も、両親も、家族も、尊厳も。そして今、法的な繋がりの最後の欠片でさえ、自らの手で断ち切ってしまった。

 どれくらいそうしていただろう。通気口から差し込む光が、青白い月光から白みゆく朝日に変わっていた。

 セレステはようやく身体を動かし、這いつくばるようにして身を起こした。

 全身の骨が軋み、バラバラになってしまいそうなほど痛む。

 比較的きれいなインナーの切れ端を裂き、不器用な手つきで腕の傷を縛ると、壁伝いにゆっくりと立ち上がった。

 ここを出なければ。

 今日はクリニックに予約が入っている。重度のうつ病を抱える少女だ。彼女には、ずっと治療に寄り添うと約束した。

 それは、今のセレステにとって「誰かに必要とされている」と感じられる、数少ない時間だった。

 よろめきながら扉へ向かい、冷たい鉄を叩く。

 やがてガチャリと鍵が開き、無表情なメイドが顔を出した。

「クリニックへ行かせて」

 セレステは掠れた声で言った。

 メイドは彼女を一瞥すると、無言のまま立ち去る。

 十分後、メイドが戻ってきて、黙って扉を全開にした。

 どうやらルシアンの許可が下りたらしい。

 上の階のアパートメントへ戻ると、ルシアンの姿はなかった。だが、空気に微かに漂うヴェロニカの香水が、昨夜二人がここで共に過ごし、さして時間も経たずに出て行ったことを物語っていた。

 セレステは目を伏せ、寝室へと向かい、血と泥にまみれた衣服を脱ぎ捨てた。

 鏡に映る自分の姿は、骨と皮ばかりに痩せこけ、肌は土気色で、目の下にはどす黒い隈が張り付いている。腕には薄汚れた布が巻かれ、赤黒い血が滲み出していた。

 簡単なシャワーで汚れを洗い流し、清潔な服に着替える。長袖で痛々しい傷を隠し、顔色の悪さをごまかすために少しだけメイクを施したが、気休め程度にしかならなかった。

 クリニックに到着したのは、いつもより三十分も遅い時間だった。彼女の姿を見たリナが、小さく悲鳴を上げる。

「セレステ先生! 顔色が……大丈夫ですか」

「平気よ。昨夜は少し眠れなくて」

 セレステは無理に微笑みを作り、真っ直ぐに診察室へ向かった。

「予約の患者さんは?」

「はい、お待ちです」

 リナは心配そうに彼女の背中を見つめ、何か言いたげに口を閉ざした。

 診察室のソファには、十六歳の少女がぬいぐるみを抱きしめるようにして座っていた。

 セレステの姿を認めると、少女は小声で呟く。

「先生、今日は……すごく疲れてるみたい」

「大丈夫よ」

 セレステは対面の椅子に腰を下ろし、できるだけ穏やかな声を意識した。

「さあ、始めましょう。今週はどうだった?」

 少女がぽつりぽつりと話し始める。だが、セレステの意識はひどく散漫になっていた。

 朝からくすぶっていた胃の痛みが、ここへ来て急激に悪化し始めていた。まるで見えない手に内臓を鷲掴みにされ、力任せに捻り潰されているような激痛。

 額に冷や汗が浮かび、視界が断続的に暗転する。腕の噛み傷も脈打つように痛んだ。

 彼女は膝の上で拳を握りしめ、必死に意識を保とうとする。

「……それで、また切っちゃったの」

 少女が袖をまくり、新旧の傷跡が交差する腕を晒した。

「こうすると……少しだけ、楽になる気がして」

 セレステの心臓がぎゅっと縮み上がった。その痛々しい傷跡に、長袖の下に隠された自分の手首の傷が重なって見えたのだ。

 彼女は深く息を吸い込み、無理やり意識を目の前の少女へと引き戻す。

「ハンナ、聞いて」

 優しく語りかける。

「自分を傷つけても、何の解決にもならないわ。痛みは一瞬気を紛らわせてくれるけれど、心の苦しみまで消してくれるわけじゃないの。別の出口を見つけなきゃ……」

 認知行動療法のテクニックについて説明し、日記を書いたり、絵を描いたり、自傷衝動に駆られた時は氷を握ったりするよう提案した。

 だが、言葉を発するたびに、胃をえぐるような痛みが倍増していく。

 声は次第に弱々しくなり、息も絶え絶えになっていく。

「先生、本当に大丈夫ですか」

 ハンナが不安そうに身を乗り出した。

「唇が、真っ白……」

「わたしは……平気……」

 セレステは安心させるように微笑もうとした。だが、口角を上げた瞬間、胃の奥で爆発するような激しい痙攣が起き、一瞬にして全身を駆け巡った。

 くぐもった呻き声とともに、彼女はくの字に折れ曲がり、両手で腹部を強く押さえ込んだ。

 完全に視界がブラックアウトし、耳鳴りがすべてをかき消していく。

 ハンナのパニックに陥った悲鳴が、ひどく遠くから聞こえた気がした。

「先生! リナさん! 早く来て!」

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