第2章
本来なら、自分が鈴木慶信を選ぶと決めた以上、井上友里子を説得するのに時間がかかると思っていた。ところが友里子は、驚くほどあっさり手を放した。
今日ここへ来る前、慶信から電話があった。夜は用事があって迎えに行けないから、家の運転手を向かわせる、と。
鈴木結月が出口を出ても運転手の姿は見当たらない。代わりに、携帯が鳴った。
「お嬢さま、もうお着きでしょうか」
向こうの運転手はやけに丁寧だ。
「うん」
結月は気のない返事をして、あたりをきょろきょろ見回した。すると相手は続けて言う。
「申し訳ありません。ちょっと急用ができまして……駐車場まで来ていただけますか?」
その言葉にかぶせるように、トイレの水を流す音がごうっと響いた。
……なるほど、急用。
結月は面倒ごとを起こすタイプじゃない。急ぎの用なら仕方ないだろう。だから、のんびり訊ねた。
「どこに停めてあるの?」
「B区で、ナンバーの下二桁が05――」
そこまで言ったところで、ツーツーと無機質な音が耳に刺さった。
携帯を目の前に持ってくると、電池切れで勝手に電源が落ちている。機内でずっと音楽を聴いていたことを思い出し、結月は小さく息を吐いた。
そのままエレベーターで地下の駐車場へ向かう。
空港の駐車場は、広すぎるにもほどがある。B区だけでも百台は停まっていそうだ。結月は車列の間を、急ぐでもなく歩きながら、下二桁05を探した。
黒いベンツ。下二桁05。
ようやく見つけて、口元がわずかに緩む。
後部座席のドアを引いて乗り込もうとした瞬間、シートの上に投げ出された長い脚が目に入った。結月は身をかがめ、車内を覗き込む。
最初に顔は見えなかった。黒いキャップを深く被り、つばが目元をすっぽり隠している。見えるのは頬の輪郭がほんの少しだけ。
黒い服に黒いズボン、足元のスニーカーまで黒。全身が黒一色だ。
唯一、肌が露出しているのは腹の上に置かれた腕だけ。袖が肘の下までまくられていて、細く白い手首がやけに目立つ。白すぎるほどに。
運転手の親戚……?
結月はそのまま、座席に乗せられたまっすぐな長い脚へ視線を落とした。彼の長い脚が伸びていて、後部座席にはほとんど余裕がない。
結月は大きく息を吸い、起こすのはやめた。空いているわずかなスペースに、音を立てないよう腰を下ろす。座ったあと、彼女もリュックからキャップを取り出して深く被った。
数分待っても、運転手は戻ってこない。
シートに頭を預けると、飛行機を降りたばかりの眠気がどっと押し寄せた。瞼が重くなり、気づけばそのまま落ちていく。
どれくらい眠ったのか。車がゆっくり停車する気配で、結月は目を覚ました。
ほどなくして車内の二人が降りる。運転してきた西村夏輝は、道中ずっと我慢していたのだろう、何か言いたげに口を開きかけた。だが向かいの公園で待っていた連中が、腕を大きく振って呼びつける。
黒衣の少年は両手をポケットに突っ込み、だるそうに歩いていった。眠気を残した冷えた顔。近寄るなと言わんばかりの尖った空気。
ここは市内の商店街の脇にある、小さな公園だった。
空は暗く、月も隠れた夜。喧嘩の約束には、ちょうどいい。
十六、七歳くらいの少年たちが二手に分かれ、すでにいつでも殴り合えるよう身構えている。待っていたのは、最後に来るこの二人らしい。
向こうの寸刈りが煙草を咥え、西村夏輝を見て叫んだ。
「やっと来たかよ! ビビって逃げたかと思ったわ!」
どうやら相手側の頭だ。
夏輝は怯まず、鼻で笑って怒鳴り返す。
「調子乗んな! うちの兄貴が来たら、泣いて謝ることになるぞ!」
言い終えて振り返った瞬間、兄貴が隣にいないことに気づいた。慌てて視線を走らせると、高橋悠人が人垣の後ろに立っている。相変わらず、寝起きみたいなぼんやりした顔のまま。
夏輝は人をかき分けて近づき、小声で煽った。
「悠人さん、あとで遠慮しないでくださいね。だって今日は……お義姉さんが見てるし」
媚びっ媚びだ。
悠人は半分だけ瞼を上げ、ぼんやり言った。
「誰?」
夏輝が固まり、振り返る。
車の窓辺に、ちょうど目を覚ました鈴木結月が頬杖をついていた。
結月は起きたばかりだった。車内に誰もいない。外を見ると、車は路肩に雑に停められていて、少し先でいかにも血の気の多そうな少年たちが今にも殴り合いそうに睨み合っている。
前の人生の井上友里子は、交友関係まで徹底的に管理した。こんな「約束喧嘩の現場」なんて、目にする機会があるはずもない。登下校は運転手の送迎、寄り道もなし。そもそも遭遇しようがなかった。
だから結月は、窓を下ろして、面白半分に静かに見物する。
悠人がその視線を追う。
そして悠人だけじゃない。二手の少年たちの視線が、車窓の少女へ吸い寄せられていった。
両腕を重ねて窓枠に置き、顎をそっと乗せてこちらを見ている。距離があって輪郭はぼやけるのに、黒髪と透けるような白い肌だけで「きっと綺麗だ」と分かる。
街灯が彼女を包み、朧げな美しさが際立っていた。
まるで、突然現れた美人。
「やべえ……悠人さんの彼女、可愛すぎだろ」
誰かが呟いた。
悠人は目を細め、車内の少女を見つめる。冷たい瞳が、少しずつ変わっていった。
そして結月もまた、ただ喧嘩を見物するつもりが――自分の「一生の敵」を見つけてしまった。
高橋悠人。
投資銀行で最大のライバル。結月は昔から何でも勝ってきた。だが投資銀行で悠人に出会ってから、案件を奪われ、叩き潰され、昇進まで先を越された。
夏輝が向こうの連中の視線に気づき、わざと大声で叫ぶ。
「悠人さん! あいつら俺をいじめるだけじゃなく、お義姉さんまでジロジロ見てます!」
悠人はゆっくり顔を戻し、無表情で相手を見た。
「死にてえのか」
声は大きくない。悠人はもともと口数が少なく、動けるなら余計な言葉を使わない。
けれど、その一言は十分すぎる挑発だった。
相手の一人が一歩踏み出しかけた、そのとき。さっきまで一番騒いでいた寸刈りのほうが、逆に妙に冷静だった。
寸刈りは、少し年上に見える。場数を踏んでいるのだろう。背後の連中みたいにカッとなることもなく、悠人の顔をじっと値踏みするように見つめた。
さっき夏輝が「悠人さん」と呼んだとき、彼は一瞬だけ目の色を変えていた。
そして、その顔をはっきり認めた瞬間、確信したように息を呑む。
寸刈り――松本文哉は、中学に入ってからずっと荒れていた。顔が広く、自分の学校だけじゃなく近隣の学校で名の知れた不良なら大抵知っている。
今日の相手が別の誰かなら、ここまで気にしなかった。
だが相手は高橋悠人だ。正直、怖い。
松本が悠人を知っているのは、彼が通っていた中学が、いわゆる下町の公立中学だったからだ。入るのは簡単で、生徒の質もばらばら。そこは悠人の通う九中からそう遠くない。
両校に深い因縁があるわけじゃない。だが九中は進学校で、そこの連中は他校、とくに下町の中学を見下しがちだった。
エリート気取りってやつだ。
もちろん、下町側も黙っていない。誰が誰に頭を下げるか。何かにつけてぶつかり合うようになった。しかも九中の連中は家が太いのが多く、身につけているものもそれなりに見える。
一方で下町中には、家が裕福じゃない不良もいる。遊び歩く金が必要なのに、親がそんなに出してくれるわけもない。
