第6章
橋本理子は橋本美月が泣き出したのを見ると、胸がきゅっと痛んだ。そっと手を伸ばして美月の頭を撫で、声を落とす。
「ママも分かってる。部屋を移らせて、嫌な思いさせちゃったよね。でも今は、まず我慢しよう。鈴木結月とうまくやりなさい。そうすれば鈴木おじさんも、あなたのこと気に入ってくれるから」
「美月、ママの言うことを聞いて。今は耐えるの。そうしないと鈴木家でいい暮らしなんてできないんだから」
橋本理子は自分の下腹に視線を落とした。鈴木慶信も自分も四十を過ぎてはいるが、子どもができないと決まったわけじゃない。
自分が鈴木の姓の子を産んでしまえば――鈴木結月だって、いつまでも偉そうにはしていられない。
鈴木結月は、この母娘の会話を盗み聞きする気はなかった。耳に入ったのは、美月が泣き叫んだ最初の一言――たぶん「同じ学校は嫌だ」みたいな内容だけ。あとは聞かなくても想像がつく。
それでも、ベッドに寝転んでヨーグルトを飲みながら、結月はふと思った。
――同じ学校は嫌、か。
でも、どうしよう。自分はわりと、橋本美月と同じ学校に行きたい。
結月は機嫌よくヨーグルトを飲み干し、明かりを消して眠った。ふかふかのベッドに沈み込むと、なぜだか明日からの新しい学校生活が少し楽しみになっている自分に気づく。
翌朝。目覚ましが鳴る前に、結月は目を覚ました。天井のシャンデリアをしばらく見つめ、ようやく布団を跳ねのけて起き上がる。
どれだけ時間が経っても、十七歳の生活に戻るのはまだどこか落ち着かない。
階下へ降りると、使用人が慌てて用意していた朝食をテーブルへ並べた。結月が座って食べ始め、もう少しで食べ終わるというところで、橋本美月がばたばたと階段を下りてくる。
その後ろから橋本理子が美月の鞄を提げてついてきて、ぶつぶつ言った。
「だから早く起きなさいって言ったのに、いつまでも――」
結月の姿が視界に入った瞬間、橋本理子は言葉を止めた。美月を起こすことに気を取られ、今日が結月の登校日でもあることを完全に忘れていたのだ。
橋本理子は即座に表情を作り替え、にこやかに結月へ向き直る。
「結月、今日が初日でしょ。運転手さんが二人とも学校まで送ってくれるから。初日は緊張するかもしれないけど、分からないことがあったら美月に聞けばいいわ」
「美月、結月のこと、ちゃんと面倒見てあげてね」
美月はテーブルの端に座り、手にしたパンを握りつぶしそうになっていた。この夏ほど、始業日を待ち望んだことはない。橋本理子が鈴木慶信と結婚してから、生活のすべてが変わった。
以前はバス通学だったのに、今では家に車があり、専属の運転手までいる。
入学初日には家のベントレーで登校して、しかも正門前で降りる――そう決めていた。
鈴木結月と同じ車で来たら、友達の前で自慢できないじゃない。
今日は始業式、しかも月曜。通勤も通学も重なって道は大渋滞で、ベントレーだろうがのろのろ進むしかない。
結月は第四高校の塀が見えたあたりで、さすがに我慢できなくなった。車が完全に詰まったのを見計らい、さっさと降りて歩くことにする。橋本美月と同じ車から降りるところを見られたくない、という気持ちもあった。
一方の美月は、車内でぴくりとも動かなかった。
数分後。結月が校門に着くと、周囲は制服姿の生徒でいっぱいだった。
B市立第四高等学校は創立百年を超える、市内でも指折りの進学校だ。
ただし校舎は新しく、設備もかなり現代的。十年後の目で見ても、第一印象は悪くない。なにより、威圧感すらある大きな正門が「名門」の空気をこれでもかと放っていた。
門をくぐると、半円形の広い広場。正面には赤と白を中心にまとめられた建物があり、校舎というより総合棟のように見える。
結月は人に聞きながら二年生の校舎を見つけ、そのまま職員室へ向かった。
各教室はまだ人が揃っておらず、席も半分ほど空いている。クラス分けの紙は各教室の前に貼り出されていたが、有名人がどのクラスになるかなど、とっくに知れ渡っていて、わざわざ噂を待つ必要もない。
とりわけ――高橋悠人。
学校には、そういう人間がいる。本人は全校生徒を知らなくてもいいのに、全校生徒のほうが彼を知らなければならない、みたいな存在。
高橋悠人は、四高ではそういう「伝説」だった。
入学した瞬間から有名だった。中学時代に築いた評判を、そのまま持ち込んだのだ。
中学時代、専門学校の不良にカツアゲされかけて、相手が五人だったのに一人で返り討ちにし、全員を警察沙汰にした――九中で一気に名が知れ渡った。
同じ中学の連中が各高校へ散っていくにつれ、高橋悠人の噂はB市の高校全体でも上位に食い込むほどになった。
そのとき、少し離れた階段の踊り場に一団が現れた。先頭の西村夏輝は姿を見せる前から声だけが飛んでくる。
「やっべ、8組なんで三階なんだよ。登るだけで死ぬわ」
すぐに数人が廊下へ出てきた。
最後尾の高橋悠人が教室の窓際に姿を見せた瞬間、さっきまでざわついていた教室は、誰かが再生ボタンを止めたみたいに静まり返った。全員が一斉に席に着き、机の上の本へ視線を落とす。
西村夏輝はその光景に目を丸くし、教室へ入るなり小声で吐き捨てた。
「……なんだよ、この静けさ」
隣の石井和希が笑いながら蹴りを入れる。
「得してんのに文句言うなよ」
高橋悠人は窓際の最後列へまっすぐ向かい、どさっと腰を下ろした。背が高い彼はいつも後ろの席だ。座ってからもスマホを見たままで、教室がなぜ急に静かになったのかなど興味もない。
前の席の女子たちは、こっそり振り返っては盗み見る。
こんな顔の番長が、女子の視線を集めないほうが無理だ。ただ、堂々と見られる者はいない。高橋悠人は容赦がない、女相手でも手加減しない――そんな噂があった。
バスケコートの脇で待ち伏せした女子が、わざと水を彼にこぼしたことがある。すると彼は、その水のボトルを丸ごと相手の頭からぶちまけたらしい。
容赦なさすぎる。
高橋悠人は俯いたまま指で画面を滑らせ続け、うっかり数字を押し間違えたのか、眉間にしわが寄った。細長い目に苛立ちが溜まる。
その不機嫌が顔に浮かんだ途端、盗み見ていた視線は一斉に引っ込んだ。
――死にたくない。
結月は学年主任を見つけると、主任はそのまま彼女を若い男性教師のところへ連れていき、笑いながら言った。
「中野、君のクラスに入る転校生だ」
結月は静かで愛想のいい表情を作り、新しい担任に好印象を残すつもりだった。
だが「中野」と呼ばれた瞬間、結月は反射的に顔を上げた。目の前の男教師は、どこか困ったような表情をしている。
学年主任が去ると、男教師は苦笑して言った。
「主任に合わせて呼ばなくていいよ。中野先生か、中野でいい」
結月は転生後、鈴木慶信についていく選択をしたせいで、前の人生とは何もかもが違っていた。
前の人生では井上友里子の手配で進学校へ進み、担任も“合格実績トップ”だとかいう厳格で古いタイプの教師だった。
目の前の、若くてどこか気さくな「中野」先生とはまるで別物だ。
中野先生も担任は初めてらしい。卒業してまだ数年の若手で、本来なら担任が回ってくる立場ではない。普通は経験のあるベテランが担任を受け持つ。
それでも今回は事情があり、中野先生が押し出される形で担任になったのだという。
中野博は結月を自分のクラスへ連れていこうとしたが、教室の前まで来たところで別の先生に呼び止められた。彼は申し訳なさそうに言う。
「鈴木、先に教室に入って適当に座ってて。あとで戻ったらホームルームするから」
結月は頷いた。
教室へ向かうと、8組の空気は、通りがかった他のクラスより落ち着いているように感じた。廊下まで笑い声が漏れているクラスも多いのに、8組は静かだ。
まったく無言ではない。ただ、みんな声を潜めている。
結月が新しい教科書を抱えて教室の入口に立った、そのとき。
場違いなほど大きく、よく通る声が響いた。
「お義姉さん!」
結月は固まって、声のしたほうを見た。
そして――最初に目に入ったのは、最後列に座る高橋悠人だった。
西村夏輝の声を聞いた高橋悠人が顔を上げる。入口に立つ少女。ポニーテールに、白いシャツと深い青色のスカート。足元は白い上履きで、靴下の縁がくるぶしの少し上に揃っている。
高橋悠人はふと視線を落とした。短いスカートの下、細く長い脚。
――綺麗だ。本当に。
西村夏輝は興奮しきっていた。まさかここで「お義姉さん」に会えるとは思わなかったのだ。以前、高橋悠人がお義姉さんを連れて自分を置いて逃げたときも、あれはあれで腹は立たなかった。
だが結月のことを聞いても、高橋悠人は一言も答えなかった。それは正直、少しムカついた。
それがどうだ。悠人さん、こんなサプライズを用意していたなんて。
西村夏輝は周囲の視線など気にせず、ぶんぶん手を振る。
「お義姉さん、こっちこっち! 早く座りなよ!」
