第2章

 あの日、ダンテを屋敷から追い出して以来、ニューヨークの裏社会ではファルコーネ家の跡取りの気性が荒くなったという噂で持ちきりだ。

 だが、そんなくだらない噂など私の知ったことではない。

 今夜はマンハッタンのプライベートクラブで開かれる、八大ファミリーの月例集会。ファルコーネの代表として、私は深紅のベルベットのイブニングドレスを身に纏い、その場に足を運んだ。

 ホールに入ると、すぐにダンテの姿が目に飛び込んできた。

 彼は弱小ファミリーのボスたちに囲まれ、その傍らにはイザベラが従順な猫のように寄り添っている。私の姿を認めた瞬間、イザベラの目が怪しく光った。彼女はウィスキーのグラスを二つ手に取り、こちらへ歩み寄ってくる。

「ファルコーネ様……」私の目の前で立ち止まった彼女は、周囲にわざと聞こえるような声で言った。「まだ私を怒っていらっしゃるのでしょう。このお酒、お詫びのしるしです」

 そう言って、クリスタルグラスの一つを私に差し出す。

 琥珀色の液体を見つめ、私は冷笑を浮かべた。前世でも同じ場面を経験している。あの時はこの酒を飲み、その夜のうちに「泥酔した失態」を写真に撮られ、裏社会中にばらまかれたのだ。

 今思えば、間違いなく薬が盛られていたのだろう。

 しかし今回は、いったいどんな小細工を弄するつもりか見物させてもらおう。

 私はグラスを受け取ろうと手を伸ばした。だが、指先がグラスに触れる直前、彼女は不自然にパッと手を離した。

 ガチャンと音を立てて砕け散るクリスタルグラス。イザベラはその勢いで床に倒れ込み、あろうことか砕けたガラスの破片の上に手を突いた。瞬く間に鮮血が溢れ出す。

「きゃあっ、痛い!」悲鳴を上げ、ボロボロと涙をこぼす。

 周囲の視線が一斉にこちらへ突き刺さった。

 人垣をかき分けて飛び出してきたダンテが、イザベラを抱き起す。そして、怒りに満ちた目で私を睨みつけた。「セレーナ! いくらなんでも酷すぎるぞ! 彼女は謝ろうとしただけなのに、なぜ突き飛ばしたんだ!」

 私は呆れて天を仰いだ。この大馬鹿者が。

「ダンテ、ウォッカで脳みそまで溶けてしまったのなら、今すぐ医者に診てもらうことね」私は冷ややかに言い放った。「これだけ大勢の目がある中で、私が彼女に指一本触れたと誰が証言できるの?」

「お前っ……」ダンテは言葉に詰まり、顔を真っ赤にしている。

 イザベラは彼の胸の中でしゃくりあげながら、か細い声で呟いた。「ファルコーネ様のせいじゃありません、私がよろけただけで……ダンテ、手が、痛いわ……」

 私は鼻で笑った。また三文芝居が始まったわ。

「そんなに彼女の騎士様を気取りたいなら、いつまでも悲劇のヒロインごっこを続けていればいいわ」この茶番から立ち去ろうと、私は背を向けた。

 その時だった。宴会場の窓ガラスが突如として吹き飛んだ。

 窓の外から三人の覆面をした暗殺者が乱入してくる。

 銃声が響き渡り、会場は阿鼻叫喚の渦に呑み込まれた。悲鳴が飛び交い、客たちは蜘蛛の子を散らすように逃げ惑う。

 しまった。私は本能的に後ずさった。

 ダンテは暗殺者の姿を認め、無意識に私の方へ駆け寄ろうとした。だがその道半ばで、イザベラが暗殺者の一人に壁際まで追い詰められ、恐怖に叫び声を上げているのが目に入る。

 彼は一秒だけ躊躇した。

 そして身を翻し、イザベラの前へ立ちはだかって彼女を庇ったのだ。

 その光景を目の当たりにして、私の心は完全に冷え切った。前世とまったく同じ結末。

 一人の暗殺者が私に銃口を向ける。ぽっかりと開いた真っ暗な銃口は、まるで死神の眼窩のようだ。

 心臓が早鐘のように打ち鳴らされる。

 次の瞬間、横から誰かが凄まじい勢いで飛び込んできて、私を床へと押し倒した。

 耳元で三発の銃声が炸裂する。

 立て続けに三つの鈍い音が響いた――銃弾が肉体を穿つ音だ。

 目を開けると、エンツォが私の上に覆いかぶさっていた。彼は片手で私の頭を庇い、もう片方の手で青白い煙を上げる銃を握りしめている。

 三人の暗殺者は、全員が眉間を撃ち抜かれ、血の海に沈んでいた。

「恐れるな」エンツォの低く掠れた声と、温かい吐息が耳元を掠める。「俺がいる」

 胸の奥で心臓が激しく波打っている。先ほどの恐怖のせいなのか、それとも今の彼との距離のせいなのか、私には分からなかった。

 危機が去ると、エンツォは体を起こし、手を差し伸べて私を引っ張り上げた。彼が視線を巡らせると、そこには無傷のままイザベラを抱きしめているダンテの姿がある。

 エンツォの瞳に、珍しく激しい怒りの炎が宿った。

 彼は大股でダンテに歩み寄るや否や、有無を言わさずその顔面に拳を叩き込んだ。

 よろけて床に倒れ込んだダンテは、口元を押さえながら信じられないという顔でエンツォを睨みつける。「てめぇ、狂ったか!」

「自分が何者か忘れたのか」エンツォは氷のように冷たい声で言い放った。「お前は彼女の婚約者候補だ。暗殺者が現れた時、真っ先に彼女を守るべきであって、部外者にかまけている場合ではないはずだ」

「まだ俺が選ばれたわけじゃない!」這い上がりながら、ダンテは冷笑を返す。「どうして俺が守ってやらなきゃならない? それに怪我をしたのはイザベラだ、セレーナじゃない!」

 エンツォの眼差しがさらに鋭く凍りついた。彼が飛びかかり、二人は取っ組み合いの喧嘩になる。骨と肉がぶつかり合う鈍い音が響く。

「もうやめて!」私は駆け寄り、血に染まるエンツォの拳を見て叫んだ。「やめなさい!」

 ダンテを庇ったのだと勘違いしたのか、エンツォの瞳に一瞬だけ苦痛の色が走る。それでも、彼はゆっくりと拳を収めた。

 彼はダンテに向き直り、低くドスの効いた声で脅しをかける。「次はないぞ。ドン・ファルコーネが許さなくとも、この俺がお前を殺す」

 ダンテは忌々しげに顔を歪めると、泣きじゃくるイザベラの腕を引いてその場から立ち去った。

 荒れ果てた宴会場には、惨状だけが残された。

 私はエンツォの元へ歩み寄り、その傷の手当てをしようとした。「あなたの手……」

 彼は私の手を避け、自嘲気味に笑う。「無駄な時間は使わないでいい。三日後、あなたは彼を選ぶのだろう?」

「私はそんなこと……」

「もういいんだ」私の言葉を遮るエンツォ。その瞳に浮かぶ失望の色が、私の胸を酷く締め付けた。「誰を選ぼうと、あなたの自由だ」

 そう言い残し、彼は背を向けて歩き出す。

 遠ざかるその背中を見つめながら、私はそっと呟いた。「私が選ぶのは……あなたよ」

 だがその声は、すでに遠く離れた彼に届くことはなかった。

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