第1章 転生覚醒

東京、ロイヤルガーデンホテルの豪奢なボールルーム。

今宵は桐生グループが主催する年次祝賀会。天井のシャンデリアが放つ無数の光が、着飾った財界のエリートたちの顔を煌びやかに照らし出している。シャンパングラスの触れ合う軽やかな音に混じり、億単位のビジネスチャンスを探る囁き声が、芳しい香水の香りと共にフロアを漂っていた。

私は、フルートグラスを片手に、その光景をどこか冷めた心地で見渡す。桐生グループの令嬢、桐生沙耶香。こんな場所にはとっくに慣れきっていた。体に吸い付くようなシルクのドレスが描く蠱惑的な曲線は、周囲の男たちの視線を集めるには十分すぎるほどだった。

「沙耶香お嬢様、今夜も一段とお美しいですな」

脂の浮いた顔をほころばせ、取引先の男が見え透いたお世辞を囁きかけてくる。

私は完璧な愛想笑いを唇に浮かべて頷きながらも、その視線は無意識に一人の男の姿を探していた。神崎凛太郎。私の婚約者にして、巨大な神崎グループを率いる次期当主。

こういう華やかな社交場にあって、彼は常に人の輪の中心にいた。彫刻のように整った横顔は、いつだって完璧な微笑みを湛えている。

ようやく人垣の向こうに、その長身を見つけた。

しかし、次の瞬間、私の目に映った光景が、全身の血を凍らせる。

凛太郎が、若い女と親密そうに言葉を交わしている。シンプルな黒のドレスに身を包んだ、いかにも清楚といった顔立ちの娘だ。彼を見上げる瞳には、隠しきれない崇拝の光がきらめいていた。見覚えがある。春原花音。最近、うちの会社に入ったインターン生。平凡な家柄の娘が、なぜこんな場所に……そして、私の婚約者に気安く話しかけているのか。

黒い嫉妬の波が、足元から這い上がってくる。私はほとんど無意識に、彼らの元へと足早に向かっていた。

「凛太郎様」

自分の声に、自分でも驚くほどの棘が滲んでいた。

「平民のインターンと戯れるとは、両家の恥ですわ」

ざわめきが、さざ波のように引いていく。好奇と非難の入り混じった視線が、私たち三人に突き刺さる。けれど、今の私には目の前の婚約者のことしか見えていなかった。

凛太郎がゆっくりと振り返る。その深い瞳に、わずかな戸惑いの色が浮かんだ。

「沙耶香、誤解だ」

「誤解ですって?」

私は冷たく笑った。

「この目で見たものが偽りだとでもおっしゃるの? 神崎家の跡取りとして、もう少しご自身の立場を弁えていただきたいものですわ」

春原花音という娘が、みるみるうちに顔を青ざめさせ、か細い声で口を挟んだ。

「桐生お嬢様、私はただ……」

「今、お前が口を出す場面かしら?」

私は彼女の言葉を、氷のような声で鋭く遮った。

「たかがインターンの分際で、馴れ馴れしく口を開かないでくださる?」

ボールルームは水を打ったように静まり返り、誰もがこの痴話喧嘩の結末を固唾を飲んで見守っている。

その時だった。こめかみの内側を、鋭い錐で抉られるような激しい痛みが走った。

「あっ……!」

思わず額を押さえる。視界がぐにゃりと歪み、シャンデリアの光が乱反射して目に突き刺さった。

そして、信じがたい光景が目の前に現れる。

視界の端で、ありえない青い光が明滅している。まるで、モニターの電源ランプのようだ。続いて、見慣れたインターフェースが私の視界いっぱいに広がった。それは、ある乙女ゲームのオープニングムービーだった。

画面の中では、華やかなドレスをまとった少女が、一人の男性に向かって激しく詰め寄っている。その少女の顔は……なんと、私と瓜二つ。

いや、瓜二つなどという生易しいものではない。あれは、紛れもなく私自身だ。

『ありえない……』

心の中で、か細い悲鳴が上がる。

直後、感情の欠落した無機質な音声が、脳内に直接響き渡った。

『ようこそ、『財閥の跡継ぎたちへ』。あなたは悪役令嬢、桐生沙耶香です』

悪役令嬢、桐生沙耶香。

その言葉をトリガーに、膨大な記憶の濁流が、私の意識を容赦なく飲み込んでいった。

前世の私は、ごく普通の会社員だった。最大の趣味は『財閥の跡継ぎたちへ』という乙女ゲームをプレイすること。そのゲームの中で、桐生沙耶香は典型的な悪役令嬢だった。傲慢で嫉妬深く、攻略対象である神崎凛太郎の心を得られないがために闇に堕ちる。最終的にはチンピラを雇ってヒロインの春原花音を襲わせた結果、全ての人に見捨てられ、絶望の淵で自ら命を絶つ……。

そして今、私はその破滅の筋書きをなぞるためだけに存在する、悪役令嬢に転生してしまったのだ。

「そん……な……」

周囲の音が遠のいていく。足から力が抜け、立っているのもやっとだった。凛太郎が素早く私の腕を取り、その声に焦りを滲ませる。

「沙耶香、どうしたんだ? ひどい顔色だぞ」

彼の完璧な顔を見上げ、私の心は底なしの絶望に満たされた。この男は、ゲームの中では常に物腰が柔らかく、私という婚約者を含め、誰に対しても紳士的な距離を保っていた。彼の心にあるのはヒロインの春原花音ただ一人。私は、ヒロインの可憐さを引き立てるための、ただの舞台装置でしかなかった。

「わ、私……少し、お化粧室に……」

かろうじてそれだけを言い残すと、私はよろめきながらその場を離れた。

パウダールームには幸い誰もいなかった。震える手で蛇口をひねり、冷たい水で顔を洗うと、ようやく意識が少しだけはっきりとした。

鏡の中の女は、人形のように精緻な顔立ちと、生まれ持った気品を湛えている。まさしく、ゲームの中でプレイヤーを散々苛立たせた、あの悪役令嬢そのものだ。鏡面にそっと手を伸ばすと、鏡の中の人物も同じ動きで応えた。

これが、現実。私は本当にゲームの世界に転生し、悲惨な末路を辿る運命の悪役令嬢になってしまったのだ。

「桐生沙耶香……」

私は鏡の中の自分に囁きかけた。

「手に入らない愛のために、全てを壊した愚かな女……」

ドアの向こうから、招待客たちのひそひそ話が聞こえてくる。

「さっきの桐生のお嬢様、どうなさったのかしら。気分でも悪くされたのね」

「お疲れなのかもしれませんわ。最近、桐生グループは大きなプロジェクトを抱えていらっしゃるし」

「それにしても神崎様は本当にお優しいのね。婚約者のことをあんなに心配なさって」

その言葉が、鉛のように私の心を沈ませる。ゲームのシナリオ通りなら、凛太郎の私への気遣いは義務感からくるもので、そこに愛情のかけらもない。彼が本当に心惹かれているのは、善良で純粋な庶民の娘、春原花音なのだ。

そして私、桐生沙耶香は、いずれ嫉妬と未練から取り返しのつかない過ちを犯し、誰からも見放された末に自ら命を絶つ。

「嫌……!」

私は洗面台の縁を掴む手に、爪が食い込むほど力を込めた。

「絶対に、同じ轍は踏まない……!」

筋書きを知っているのなら、運命を変えることだってできるはずだ。まずすべきことは、破滅フラグを回避すること。

凛太郎に執着し続けるのも、嫉妬心から花音を傷つけるのも、そして自分自身を破滅に追い込むような真似も、今日限りでやめなければ。

深く息を吸い込み、乱れた髪を指で整える。私は扉を開け、再び喧騒の中へと戻った。

ボールルームには、まだ優雅なワルツが流れている。まるで先ほどの騒ぎなど最初からなかったかのように。私は周囲を見渡し、すぐに凛太郎の姿を見つけた。彼はフランス窓の前に一人立ち、私が戻ってくるのを待っていたようだった。

私は決意を胸に、真っ直ぐ彼の方へ歩いていく。

「顔色が悪い。先に帰って休んだらどうだ?」

凛太郎は優しい声で言った。その瞳には、純粋な気遣いの色が浮かんでいる。

ゲームの中では、この気遣いが数多のプレイヤーをときめかせた。だが、今の私にはわかる。これは婚約者としての最低限の責任感であって、特別な感情の表れではない。

「先ほどは、わたくしが取り乱しましたわ」

私は完璧な令嬢の仮面を貼り付け、意識して声のトーンを冷たくした。

「少し、考えが及ばなかったようですの」

凛太郎は一瞬、虚を突かれたように目を見開いた。彼の知る桐生沙耶香なら、さらに騒ぎ立てこそすれ、自ら非を認めるなどあり得ないからだろう。

「沙耶香……」

「今夜の祝賀会は成功ですわね」

私は彼の言葉を遮った。

「わたくしたちも、取るに足らないことではなく、本来の仕事に集中すべきですわ」

そう言うと、私は淑女の作法に則って完璧に一礼し、踵を返した。背中に凛太郎の訝しむような視線を感じたが、決して振り返りはしなかった。

人混みの中に、春原花音の姿が見えた。彼女はフロアの隅に立ち、何か物思うように、じっと私を見つめている。私たちの視線が絡み合った瞬間、彼女の口角が微かに持ち上がり、意味深な笑みを浮かべた。

そして、呟く。

「面白い……」

その声は、私にしか聞こえないほど小さかった。

「桐生のお嬢様が、自ら引くなんて」

背筋に氷の刃を滑らされたような、鋭い悪寒が走った。その言葉は……まるで、この世界の筋書きを知っている者の——。

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