第2章
この世界には、きっとバタフライエフェクトが存在するのだと思う。
堀江夏風の姿が、私の日常の背景に頻繁にちらつくようになった。ある時はルームメイトの話の端々から、またある時は文乃が持ち帰る贈り物を通して。
その日、堀江夏風から贈られた花束を抱えて帰ってきた文乃が、ふいに私たちに言った。
「ねえ、サークルのイベント一緒に来ない? 土曜日に青葉山でピクニックするつもりなんだけど」
「行く行く!」と即答したルームメイトは、私の手を引いた。
「紫苑も付き合ってよぉ。写生にもちょうどいいじゃん! ね?」
私は少し迷ってから答えた。
「……わかったわ」
土曜の朝、私は画材道具を背負って集合場所へと向かった。
秋の日差しは暖かく朗らかで、遠くに見える青葉山は薄い霧を纏い、幻想的に霞んでいる。
「紫苑! こっちこっち!」
ルームメイトが手を振っている。
近づいていくと、そこにいるはずのない人物が視界に入った。
堀江夏風だ。
アウトドアウェアに身を包み、優しげな手つきで文乃のリュックを整えている。
「今日の料理は全部夏風が作ったの!」
文乃は嬉しそうに彼の腕に絡みついた。
「私たちに最高のピクニックをさせてあげたいんだって」
周囲の学生たちが、冷やかすような、それでいて好意的な声を上げた。
青葉山に到着すると、ピクニック客で意外なほどの賑わいを見せていた。
皆がレジャーシートを広げたり、料理を並べたり、カメラを片手にはしゃぎ回っている隙に、私は少し離れた場所を選び、イーゼルを立てて絵の具を調整し始めた。
正午になり、ピクニックが本格的に始まった頃。
誰かが私の絵について尋ねてきた。「どう?進んでる?」
私は少し照れくささを感じながらスケッチブックを見せる。
彼らは次々と覗き込み、口々に画力を褒めてくれた。
不意に、ある一人が画面上の暗い色塊を指差して尋ねた。
「これ、何?」
いつ描いたのか自分でも思い出せず、構図と色の配置から分析するしかなかった。
「たぶん……人ね。夢中で描いてたから、誰だったかまでは注意してなくて」
その言葉に皆が興味津々になり、その人物が誰なのか推理合戦が始まった。
「あ、俺その人撮ったかも!」
別の男子学生がスマホを取り出し、写真をスクロールさせる。
「ほら、見てよ。同じ人じゃない?」
皆が周りに集まり、見比べる。
「本当だ!」
「誰だろう、これ」
私も身を乗り出して覗き込んだ。
ほんの一目。それだけで、私は石になったかのように動けなくなった。
初恋の人だ。
前世で、私が最も彼を愛していた時に死んでしまった彼。
けれど今世では、私たちはまだ出会ってすらいない。
「知ってる!」
ある学生が言った。
「うちの学科の柏木律太先輩だよ! よく一人で山に入って研究してるんだ」
「え、なんか夏風先輩にちょっと似てない?」
誰かが唐突に言った。
「横顔とか似てるけど、柏木先輩の方が学者っぽい雰囲気あるよね」
「夏風先輩の方がもっと鋭い感じだし」
そう、二人は確かに違う。
「見せてくれ」
堀江夏風は眉をひそめ、学生からスマホを受け取った。
写真の人物をはっきりと認識した瞬間、彼は弾かれたように顔を上げ、私を凝視した。
私は小首をかしげて尋ねる。
「どうしましたか? 堀江先輩」
彼は聞けないはずだ。
「俺を身代わりにしてるのか」なんて言葉は。だって今世の私は、彼を知らないのだから。
場の空気が妙に重くなり、堀江夏風は押し黙り、文乃さえも不機嫌そうにしている。
けれど、私にはどうでもよかった。
私は青葉山を探し回り、ついに中腹で柏木律太を見つけた。
彼は岩陰にしゃがみ込み、地質調査用のハンマーを手に何かを熱心に叩いていた。
木漏れ日が彼に降り注ぎ、その姿を優しい光の輪で縁取っている。
私は足を止め、深く息を吸い込んで平静を装った。
「すみません」
なるべく自然な声を意識して近づく。
「この近くに写生に向いた場所はありませんか? 視界が開けたところを探していて」
彼が顔を上げた。
その瞬間、涙が溢れそうになった。
あの穏やかな瞳、あの秀麗な顔立ち。ただ前世よりも少し若く、眉目には学生特有のあどけなさが残っている。
「五十メートルほど先に行くと、展望台がありますよ」
彼は前方を指差した。その声はとても優しかった。
「そこなら市内が一望できますし、光の加減も良いと思います」
「ありがとうございます」
私は頷いたが、すぐに立ち去ることはしなかった。
私の躊躇いに気づいたのか、彼は立ち上がって手の土を払った。
「美術系の学生さんですか?」
「ええ、二年生です」
一拍置いて、私は尋ねた。
「地質調査をされているんですか?」
「まあ、そんなところです」
彼ははにかんだ。
「この辺りの岩盤構造を調べていて。青葉山の地質は特殊なんですよ」
語る彼の瞳は輝いていた。前世で私に研究の話をしてくれた時と同じように。
私の心臓が激しく早鐘を打つ。
「見てもいいですか?」
自分の口が勝手に動いていた。
「もちろん」
彼は屈み込み、岩の紋様を指差した。
「ここの層理を見てください。これは数百万年前に形成されたもので……」
彼の声は柔らかく、特有の忍耐強さを帯びている。
私は彼の隣にしゃがみ込み、岩肌を滑る彼の手指を見つめていると、今がいつの世なのか分からなくなるような錯覚に陥った。
「地質学に興味が?」
彼が小首をかしげて尋ねてくる。
「少しだけ」
と私は答えた。
「風景を描くのが好きなので、自然のことをもっと知りたくて」
「それなら、ここはうってつけの場所ですよ」
彼は立ち上がった。
「青葉山は天然の地質博物館ですから。もし描きたいなら、いくつか特別な場所を案内しますよ」
私は彼を見上げた。秋の日差しが彼の背後で光の輪を作っている。
「はい」
私は小さな声で答えた。
私たちはそうして、長い時間を山頂で過ごした。
彼が岩の話をし、私がスケッチブックを見せる。
夕日が沈みかけ、山の下からルームメイトの呼ぶ声が聞こえてくるまで。
「もう降りないと」
私が言う。
「ええ」
彼は頷いた。
「山道は足場が悪いから、気をつけて」
背を向けて数歩進み、こらえきれずに振り返る。
彼はまだその場に立ち、私に向かって手を振っていた。
