第3章
月曜日の朝。私は美術棟の教室に座っていたものの、まったく集中できずにいた。
脳裏には、週末に青葉山で光景が、何度もフラッシュバックしている。
「紫苑、何をぼーっとしてるの?」
隣の席の子が、私の肩をつつく。
「ううん、なんでもない」
私はハッとして、再びデッサンに意識を戻す。
だが、無意識に走らせた鉛筆が描き出していたのは、柏木律太の横顔だった。
授業が終わると、私は画具を片付け、消耗品を買い足すために青葉書店へ向かうことにした。
書店の重い扉を開けると、慣れ親しんだインクと紙の匂いがふわりと漂ってくる。
店内に客の姿はまばらで、数人の学生が本を立ち読みしている程度だ。
私は迷わず美術書コーナーへ向かい、必要な参考書を探し始める。
『色彩構成の基礎』『風景スケッチ技法』……
並んだ背表紙を滑らせていた指先が、ふと一冊の本の前で止まる。
『自然光の表現』だ。
この本は、前の人生で柏木律太が誕生日に贈ってくれたものだった。
彼はこう言ったのだ。
『紫苑、君の描く風景はいつも美しいけれど、光と影をもっとうまく捉えられるようになれば、きっとさらに人の心を動かす絵になるよ』
私は棚から本を抜き出し、表紙をめくって扉ページを開く。
白い紙の上には、当然ながら何も書かれていない。
あの時、彼が端正な文字で書き記してくれた言葉は、ここにはない。
『君の絵筆が、いつまでも一番美しい光を捉え続けられますように』——そう書かれていたあの一冊とは違うのだ。
「すみません、少しよろしいですか? そこにある本を取りたくて」
穏やかな声が、背後からした。
振り返った私は、そのまま凍りついたように立ち尽くしてしまった。
柏木律太がそこに立っていたのだ。その手には、分厚い地質学の専門書が抱えられている。
彼もまた、少し驚いたような顔をした。
「まさか、こんなところで会うなんて」
「画材を買いに来たの」
私は手にした本を軽く掲げて見せ、努めて平静な声を出す。
「柏木くんも、本を買いに?」
「ああ。野外調査用の参考書が少し必要でね」
私は彼が本棚を見やすいように、そっと体を脇へずらす。
彼は『野外地質調査ハンドブック』を手に取り、パラパラとページをめくってから棚に戻した。
続いて『地質構造分析』を手に取ったが、今度は眉をひそめる。
「これはフィールドワーク向きじゃないな。重すぎる」
彼はそう独りごちた。
私は書棚に目を走らせ、無意識のうちに先ほどの『野外地質調査ハンドブック』に手を伸ばしていた。それを彼に差し出す。
「こっちのほうが、実用的だと思う」
彼は一瞬きょとんとしてから、本を受け取り、今度はじっくりと中身を確認する。
「本当だ」
彼が瞳を輝かせる。
「確かにこっちのほうが適してる。ありがとう」
「ううん、どういたしまして」
平然と答えたけれど、心臓は早鐘を打っていた。
「栗原さんは、地質学にも詳しいの?」
彼は不思議そうに尋ねてくる。
「ううん、ただ……」
私は唇を噛む。
「ただ、そっちのほうが持ち運びやすそうに見えたから」
「なるほど」
彼はふっと笑った。
「よく気がつくね」
私たちは並んでレジへと向かう。
「会計は一緒でいいよ」と彼が言う。「本を選んでくれたお礼をさせてほしい」
「そんな、悪いよ……」
「いいから」
その口調は穏やかだが、決して譲らない響きがあった。
顔を上げると、彼の澄み切った瞳と視線が絡む。
その瞬間、私はすべて打ち明けてしまいたい衝動に駆られた。
ずっと、ずっと前からあなたのことを知っているのだと。
別の世界では、私たちが愛し合っていたのだと。
あなたは三年後に死んでしまうこと。そして私がこの時に戻ってきたのは、恐らくその結末を変えるためなのだと。
でも、言えるはずがない。
私はただここに立ち、これが二度目の偶然の出会いであるかのように振る舞うことしかできない。
「栗原さん?」
彼は不審そうに私の顔を覗き込む。
「ううん、なんでもないの」
私はかぶりを振った。
「そうだ、栗原さん」
会計を済ませると、彼はスマートフォンを差し出してきた。
「よかったら、連絡先を交換しないかな? 地層が綺麗でスケッチに向いている場所、いくつかおすすめがあるんだ」
心臓が、ドクリと大きく鳴った。
前の人生で連絡先を交換したのは、展覧会の会場だった。あの時は、私から頼んだのだ。
なのにこの人生では、彼から切り出してくれた。
「……うん」
私は彼のスマホを受け取り、自分の番号を入力する。
「じゃあ、僕はこれで。またね」
彼は軽く手を振り、踵を返して去っていく。
私はその場に立ち尽くしたまま、彼の背中が街角に消えていくのを見送った。
不意に、ポケットの中でスマホが震える。
新着メッセージだ。
柏木律太:『今日は会えて嬉しかったよ。もしよかったらなんだけど、週末に青葉湖へ地質調査に行くんだ。あそこは景色も綺麗でスケッチに最適だと思う。一緒にどうかな?』
私はそのメッセージを見つめ、画面の上で指を彷徨わせる。
前の人生での初デートも、場所は青葉湖だった。
運命は抗いようもなく、再び同じ場所へと巡り着いてしまったようだ。
