第4章

週末の朝。カーテンの隙間から日差しが差し込み、私は予定よりもずっと早く目を覚ました。

スマホの画面に表示された、柏木律太からのメッセージ。

『九時に青葉湖の北門で待ち合わせしよう』

その文字を見るだけで、心臓が早鐘を打つ。

「紫苑、今日すっごく可愛いじゃん!」

ルームメイトが冷やかすように言った。

「デート?」

「ただの写生だよ」

私の頬がカッと熱くなる。

「写生に行くのにメイクなんて必要? それにそのスカート、新品でしょ」

彼女はニヤニヤと笑った。

私はうつむいて、自分の服を見る。

ベージュのニットカーディガンに、水色のロングスカート。確かに普段より、ずっと気合が入っていた。

「ま、楽しんできなよ」

ルームメイトが私の肩をポンと叩く。

「柏木先輩、いい人だしね」

青葉湖の北門に着くと、柏木律太はすでにそこで待っていた。

紺色のアウトドアジャケットを羽織り、地質調査の道具が詰まったバックパックを背負っている。その姿は活力に満ちていた。

「栗原さん、おはよう」

彼は笑顔で手を振った。

「おはようございます、柏木先輩」

私は彼のもとへ歩み寄る。

「律太でいいよ」

彼は言った。

「先輩って呼ばれると、なんだか堅苦しくてさ」

「じゃあ……私のことも、紫苑って呼んでください」

「分かった。紫苑」

彼はいっそう明るく笑った。

私たちは湖畔の小道を並んで歩き始めた。

秋の青葉湖は、現実とは思えないほど美しい。さざめく湖面は光を反射して輝き、遠くの山々は幾重にも重なり、近くの葦が風に揺れている。

「ここの地質構造は特別なんだ」

律太は歩きながら説明を始めた。

「ほら、あそこの岩層を見てごらん。はっきりとした褶曲があるだろう? あれは、かつてここで激しい地殻変動が起きた証拠なんだ」

彼の解説を聞きながら、懐かしい温もりが胸に広がる。

彼はかつて、こう言った。

『紫苑。地質を知ることは、大地の歴史を知ることなんだ。一つひとつの岩石が、地球の物語を記憶しているんだよ』

「律太」

私は不意に口を開いた。

「ん?」

「どうして、地質学を選んだんですか?」

彼は足を止め、遠くの湖面に視線をやった。

「この世界を知りたいからかな」

彼は静かに言った。

「地質学は単に岩石を研究するだけじゃない、時間を研究する学問なんだ。あの岩層だって、何億年も前にできたものもあれば、何千万年前のものもある。それらを前にすると、人間なんてちっぽけな存在だなって思うよ」

「でも……」

彼は振り返り、私を見つめた。

「だからこそ、僕たちは今を大切にしなきゃいけない。目の前の瞬間を、周りにいる人たちを、もっと大切にするべきなんだ」

心臓が、ドクリと激しく震えた。

彼以前も、似たようなことを言っていたからだ。

あれは、彼が事故に遭う一ヶ月前のこと。

私たちは遠山地質公園の展望台に立っていた。彼は遠くの山々を指差して言ったのだ。

『紫苑。地質学的な時間の尺度で見れば、人の一生なんてほんの一瞬だ。だから、悔いのないように生きなきゃな』

そしてその一ヶ月後、彼は逝ってしまった。

私一人を、尽きせぬ後悔の中に残して。

「紫苑?」

律太が心配そうに私の顔を覗き込む。

「どうしたの?」

「ううん、なんでもないです」

私は目尻の涙を拭った。

「ただ、律太の言葉に感動しちゃって」

「ごめん、話が重すぎたかな?」

彼は少し決まり悪そうにする。

「いいえ、そういう話を聞くの、大好きです」

私は真剣に答えた。

「律太の言う通りだもの。私たちは、今を大切にしなきゃいけない」

彼は微笑んだ。その眼差しはどこまでも優しい。

「じゃあ、今日という一日を大切にしよう」

私たちは再び歩き出し、視界が開けた湖湾にたどり着いた。

「ここは写生に良さそうだ」

律太が言った。

「僕は向こうでサンプルを採取してくるから、紫苑はここで描いてて」

「はい」

私はイーゼルを立て、絵の具を溶き始めた。

陽光を浴びて黄金色にきらめく湖面。薄霧に包まれた遠くの山並み。風に揺れる葦。

筆がキャンバスの上を走り、徐々にその美しい景色を輪郭づけていく。

どれくらいの時間が経っただろう。背後に人の気配を感じた。

「綺麗に描けてるな」

耳元で律太の声がした。

振り返ると、彼がすぐ後ろに立ち、真剣な眼差しでキャンバスを見つめていた。

「君の絵は、いつだって一番美しい瞬間を捉えているね」

彼は呟くように言った。

「それは……」

私は唇を噛んだ。

「じっと観察してこそ、一番美しい姿が見えてくると思うから」

彼は一瞬きょとんとし、それから破顔した。

「じゃあ、僕もこれからはもっと観察力を磨かないとな」

「律太」

私は唐突に尋ねた。

「これからもずっと、地質学の研究を続けるんですか?」

「たぶんね」

彼は少し考えてから答えた。

「やっぱり、好きだからさ」

「じゃあ、野外調査にも行くんですか?」

声がわずかに震えてしまう。

「危険な場所とか」

彼は不思議そうに私を見た。

「確かに野外調査には危険が伴うけど、安全対策をしっかりすれば基本的には大丈夫だよ。紫苑、どうしてそんなことを聞くの?」

どう答えればいいのか、分からなかった。前の人生で、あなたが野外調査中の事故で亡くなったからだなんて、言えるはずがない。

「ただ……心配で」

私は小声で言った。

彼はしばらく沈黙し、それから手を伸ばして私の頭を優しく撫でた。

「心配してくれてありがとう」

穏やかな声だった。

「気をつけるよ」

「紫苑」

律太はしゃがみ込み、私と視線の高さを合わせた。

「何か、悩みでもあるの?」

彼の澄んだ瞳を見つめ返す。すべてを打ち明けてしまいたい衝動に駆られる。

でも、それはできない。

私は首を横に振った。

「ありません。ただ、ちょっと考えごとをしてただけ」

「もし何か悩みがあるなら、言ってほしい」

彼は真摯に言った。

「知り合ってまだ間もないけど、僕は君の友達になりたいんだ。何でも相談できるような、友達に」

友達。

その言葉は、ナイフのように私の胸をえぐった。

前の人生で、私たちは単なる友達ではなかった。

恋人同士で、お互いにとって一番大切な存在だった。

けれどこの人生で、私たちはまだ出会ったばかりだ。

私は一から始めなければならない。あの道を、もう一度歩き直さなければならない。

「ありがとう、律太」

私は精一杯の笑顔を作った。

「私も、律太と友達になりたいです」

「じゃあ、これで僕たちは友達だ」

彼は立ち上がり、手を差し出した。

その手を握り返す。手のひらから伝わる温もりに、鼓動が加速した。

「そうだ、君に渡したいものがあるんだ」

彼はバックパックから一つの石を取り出した。

表面に虹のような光沢を宿した、美しい石だ。

「これはラブラドライト」

彼は言った。

「見る角度によって違う色に反射するんだ。まるで君の絵みたいに、見るたびに新しい発見がある」

「私に?」

「うん、紫苑だけの特別なお土産」

彼はその石を私の手のひらに乗せた。

「気に入ってくれるといいんだけど」

石を握りしめた瞬間、堪えきれずに涙が溢れ出した。

付き合って一周年記念の時も、彼は私にラブラドライトを贈ってくれた。

私はその石を肌身離さず持ち歩いていた。彼が事故に遭うまで。

そしてそれは、彼の他の遺品と共に、私の記憶の中に封印されたのだ。

「紫苑、どうして泣くの?」

律太が慌てた様子で言う。

「何か気に障ることでもしたかな?」

「ううん」

私は涙を拭った。

「ただ、感動しちゃって。ありがとう、律太」

「よかった」

彼は安堵の息をついた。

「気に入らなかったのかと思ったよ」

「すごく嬉しいです」

私は心を込めて言った。

「今までもらった中で、最高のプレゼントです」

彼は笑った。記憶の中にある笑顔と、何一つ変わらない笑顔で。

私たちは夕方まで湖畔で過ごした。夕日が湖面全体を黄金色に染め上げていく。

「そろそろ帰ろうか」

律太が言った。

「日が暮れちゃう」

「はい」

画材を片付け、私たちは湖に沿って来た道を戻り始めた。

あの桜の木の前を通った時、私は足を止めた。

彼が私に告白してくれるんじゃないか、と思って。

案の定、彼も足を止めた。

「この桜の木、綺麗だろ? 春になると満開になって、湖畔全体がピンク色に染まるんだ」

私は少し失望した。

これは、私たちの出会いが早まったことによっても、運命の分岐点は変わっていないということ。

「知ってます」

思わず口に出してしまった。

「来たことあるのか?」

彼は不思議そうに私を見た。

「いえ、ただ……聞いたことがあって」

私は慌てて誤魔化した。

「じゃあ春になったら、一緒に見に来よう」

彼は笑って言った。

「はい」

彼を見送った後、私は寮へと歩き出した。

「青葉芸術棟」の前を通りかかった時、また堀江夏風を見かけた。

彼は一人で建物の下に佇み、どこか寂しげに見えた。

私に気づくと、彼は早足で近づいてきた。

「紫苑」

「どいて」

私は冷たく言い放つ。

「話があるんだ」

彼は私の行く手を阻んだ。

私は足を止め、彼を睨みつけた。

「私たちに何を話すことがあるの? まさか文乃の彼氏として、私と話そうってわけ?」

「俺と文乃は……」

彼は言いよどんだ。

「あなたたちのことなんて、私には関係ない」

私は彼の言葉を遮った。

「私たちは親しくないんだから。距離を置くべきよ、堀江先輩」

そう言い捨てて、私は彼を避けるように早足で立ち去った。

寮に戻り、あのラブラドライトを枕元に置いた。

灯りに照らされ、石は美しい輝きを放っている。

まるで律太の笑顔のように、温かく、美しい光。

スマホが震えた。

律太:『紫苑、今日は楽しかった。おやすみ』

私は返信を打つ。

『私もです。おやすみ、律太』

そして私はその石を抱きしめ、ゆっくりと眠りについた。

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