第2章
場の空気はいよいよ張り詰め、誰もがこちらの動きを凝視していた。
警官が二名、半歩前へ出る。
「お客様。事情をお伺いします。ご同行ください」
黒田美穂はまつげを小さく震わせ、視線を落とす。口元だけが、ほんのわずかに歪んだ。
そして顔を上げた瞬間には、心配そうな表情に切り替わっている。
「警察の方……姉ちゃん、世間を知らなくて。驚かせないであげてください……」
黒田美沙子が美穂の腕を乱暴に引き寄せ、警官へ振り向く。声は甲高い。
「こんな人、さっさと連れて行って! うちは黒田家とはもう関係ありません!」
黒田美穂は目を伏せ、口角をほんの少しだけ上げる。
そのとき――黒田理沙が顔を上げた。警官の肩越しに、黒田美穂の顔へ視線を落とす。
静かすぎる眼差し。
静かだからこそ、背中がぞくりとする。
警官が手を伸ばした、その瞬間。黒田理沙が口を開いた。
「警官。通報します。黒田美穂は、麻薬の密輸の疑いがあります」
セキュリティチェックゲートが、いちど凍りつく。
密輸。
所持よりも、はるかに罪が重い。
黒田美穂のまつげが大きく跳ね、目尻が瞬時に赤く染まった。
「姉ちゃん……何を言ってるの? この数か月、私がどれだけ姉ちゃんを大事にしたと思ってるの? 料理に変なもの入れてても見て見ぬふりした。家の中がめちゃくちゃでも、黙って隠してあげた……それなのに、私にこんな汚い濡れ衣を?」
黒田美沙子が美穂を抱き寄せ、黒田理沙を睨みつける。目の奥で怒りが燃え上がっていた。
「美穂はあんたのことばっかり考えてたのに! あんたは私たちの飯に薬を入れて、今度はあの子を牢屋に送る気!?」
黒田守の顔色がみるみる青黒くなる。
「理沙。自分のしたことは自分で背負え。美穂を巻き込むな」
黒田理沙は三人を見渡し、瞳の底に、ごく淡い納得を浮かべた。
――演技が上手い。
でも、相手を間違えた。
「去年八月。国境で摘発されたK163の大規模密輸事件」
黒田理沙は言葉を切り、淡々と続ける。
「押収されたケシ殻の中に、下三桁417のロットがあった。湿気で表面に微細なカビ斑が出ていて、検品時に三個不足している」
理沙は目を上げた。
「私の鞄から出たのは、ちょうど三個。ちょうどカビ斑がある」
周囲が息を呑む。ざわめきが、すっと引いた。
「だから何よ!」
黒田美沙子が顎を突き上げる。
「どこから持ってきたか、あんたが一番分かってるでしょ!」
黒田理沙は取り合わない。検査台に置かれていたミネラルウォーターを一本取り、キャップをひねって外した。
黒田美穂が反射的に後ずさる。
「な、何するの……?」
次の瞬間。
冷たい水が容赦なく、頭から浴びせられた。
「きゃあっ!」
黒田美穂がよろめき、髪から水がぽたぽた落ちる。化粧も、表情も、みっともなく崩れた。
「……っ、黒田理沙! あんた狂ってる!」
黒田理沙は空になったボトルを台へ戻し、ただ淡々と見下ろした。
怒りに震えながら言い返そうとした黒田美穂は、ふいに固まる。
自分の手を見下ろした。
濡れた指先に、褐色の斑点が――じわり、じわりと浮かび上がっていく。
まだらで、濃淡があり、皮膚に染み込むように広がる色。
黒田美穂の顔から血の気が引いた。
「……そんな、ありえない……」
「K163ロットの特徴」
黒田理沙の声は薄い。
「粉が水に触れると酸化して変色する。あなたの手についてるのは、何?」
黒田美穂は慌てて手を背中に隠す。
遅い。
もう全員が見ていた。
美穂は必死で服に擦りつける。皮膚が赤くなるほど擦っても、褐色は落ちない。
「違う……これは……!」
喉がひくついた。
「理沙が私を陥れたのよ! わざと――!」
警官二名が前へ出る。
「黒田美穂さん。事情を伺います。ご同行ください」
黒田美穂は黒田美沙子の腕に縋りついた。
「ママ! あの女が私を! 認めさせて! 私、あなたの実の娘でしょう! 連れて行かせないで――!」
黒田美沙子が咄嗟に手を伸ばす。だが警官に遮られ、指先が空を掻いた。
――薬物の取り締まりが厳しい今、黒田美穂がこんなものを持っているはずがない。
黒田理沙は胸に湧き上がる疑念を押し込み、リュックを掴んでセキュリティチェックゲートの先へ向かう。
「黒田理沙!」
黒田美沙子が数歩で追いつき、理沙の手首を強く掴んだ。声を極限まで落とし、吐き捨てる。
「警察に言いなさい。間違いだったって。美穂の代わりに罪を被りなさい。二十年育てたんだから、返しなさいよ!」
黒田理沙は返事をしない。
掴まれた手首を、もう片方の手で――指一本ずつ、静かに外していく。
黒田美沙子は力に押され、よろめいて二歩下がった。
黒田理沙は振り返らない。そのまま検査場へ消えていく。
「黒田理沙――!」
背後で、美沙子の罵声が炸裂した。
「恩知らず! 二十年育ててこれ!? ろくな死に方しないわよ――!」
さらに奥で、美穂の甲高い泣き叫び。
「ママ――! ママ助けて――!」
黒田理沙は振り返らない。まっすぐゲートへ向かった。
アナウンスが、搭乗口変更の通知を何度も繰り返している。
理沙は掲示板を見上げ、表示が赤くなっているのを確認した。
「搭乗手続き終了」
揉めているうちに、乗り遅れたらしい。
視線を戻し、予約変更カウンターへ向かおうと二歩進んだ――そのとき、視界の端に一人の男が入った。
到着ロビーの方向から、足早にこちらへ向かってくる。
仕立ての良い灰色のコート。照明を受けて控えめに艶があり、高価だと一目で分かる。
けれど裾には灰がべったりと付着し、まるで砂埃の舞う場所から直に出てきたようだった。
男は裾を見下ろして眉を寄せ、手で二度叩く。
ふわりと灰が舞い、彼は顔をしかめて首を逸らす。どこか困ったような、諦めの混じる仕草。
そして顔を上げた瞬間。
人混みの向こうで、その視線が黒田理沙に突き刺さった。
男は固まった。数秒、確認するように見つめ――それから大股で近づいてくる。
「君が……黒田理沙か?」
黒田理沙は目を上げた。
近くで見ると、眉目は深く、鼻筋が通り、全身に上に立つ者の気配を纏っている。
なのに、彼女を見る眼差しだけがやけに柔らかい。慎重な、探るような優しさ。
「俺は兄だ。青山拓哉」
低い声で続ける。
「遅くなってすまない。発射基地の方は電波が悪くて、連絡を受けた時にはもう時間が……」
言いながら裾の灰を見て、苦笑した。
「基地から直行してきた。スターシップの燃料系でトラブルが出て、数日張り付いてたんだ。向こうは砂嵐がひどくてな……着替える暇もなかった」
スターシップ。
黒田理沙の瞳が、わずかに揺れる。
国家級の深宇宙探査プロジェクト。世界が注目し、関われるのは頂点にいる人間だけ。
目の前の「兄」を見て、胸の奥の波がじわじわと広がっていく。
スラム街の両親。
遊んで暮らす弟が三人。
――じゃあ、この男は何者だ。
青山拓哉は疑念を察したように、穏やかに言った。
「道中でゆっくり説明する。行こう。専用機が待ってる。これ以上遅れたら向こうが焦れる」
専用機。
スラム街の家庭に、専用機?
黒田美沙子の言葉は――どうやら嘘だった。
黒田理沙は伏し目がちになり、感情を瞳の奥へ沈めた。
「黒田理沙――!」
背後から、美沙子の金切り声。
振り返ると、黒田美沙子と黒田守がこちらへ走ってくる。美沙子は涙の跡が残り、目が真っ赤だ。守は青い顔で追っていた。
二人は近づくなり、まず青山拓哉へ視線を落とす。
黒田美沙子は上から下まで舐めるように見る。
灰色のコートは上等そうだが、裾の灰、袖の皺、革靴についた埃――。
その目に、露骨な蔑みが浮かぶ。
こんな格好、どう見ても現場仕事の人間。
都会にはよくいる。見栄のためにまともなコートを羽織っても、根っこは土臭いまま。
貧しい土地の人間は、どれだけ着飾っても隠しきれない。
――そんな侮蔑が、黒田美沙子の顔に貼りついたままだった。
