第2章 日記の中の秘密の恋慕
「みなさん、十二ページを開いてください。夏目漱石の『こころ』における人間性の描写を分析します……」
先生の声が教室に響き渡るが、私の耳には全く入ってこない。意識はとっくに、遥か前世へと飛んでいた。
前世、二十五歳の私は、人生で最も暗い時期を過ごしていた。
父、神崎康夫の建設会社がパートナーに嵌められ、政府プロジェクトの汚職事件に巻き込まれたのだ。一夜にして、神崎家は東京の上流社会の賓客から、誰もが避けて通る犯罪者の家族へと転落した。
さらに恐ろしいことに、私の婚約者だった周防秀利が、父の信頼を利用してインサイダー取引を行い、最終的にすべての罪を神崎家に被せたのだ。
「あのクズが……」
私は拳を握りしめ、爪が掌に食い込んだ。
前世の私はあまりにも純真で、人の心がどれほど邪悪になりうるかなど、全く知らなかった。債権者たちは血に飢えたハイエナのように我が家に群がり、不動産は差し押さえられ、銀行口座は凍結され、私は身売り同然のライブ配信契約に署名させられた。
毎日十二時間の配信。様々な気色の悪い視聴者にからかわれ、借金を返すためならプライドさえも捨てた。
「神崎さん、この一文の意味を答えてください」
先生の声が、私を現実に引き戻した。私は慌てて立ち上がり、黒板の文章を見る。
「あ……人の心の複雑さ、でしょうか」私は適当にはぐらかした。
「よろしい、座りなさい」
ほっと息をつくと、私の意識はまた前世へと戻っていった。
私が最も絶望していたその時、池田究が現れた。
あれは雨の夜だった。配信を終え、疲れ果てた体で会社のビルを出たところだった。池田究は入り口に立ち、黒い傘を差していた。
彼は変わっていた。
高校時代の、あの貧しい屋台の少年は、成功した企業家へと成長していた。オーダーメイドのスーツが完璧な体を包み、その佇まいは落ち着きと気品に満ち、眼差しは深海のように深かった。
「神崎さん」
彼は私の方へ歩み寄り、その声は春風のように穏やかだった。
私は呆然とした。十年も会っていないのに、彼はまだ私のことを覚えていたなんて。
「池田……くん?」
私は信じられない思いで彼を見つめた。
「私と、結婚していただけませんか」
彼は突然切り出した。まるで天気の話でもするかのような、平然とした口調で。
私は聞き間違えたのかと思った。
「え?」
「あなたの配信会社は買収しました。神崎家の負債もすべて清算済みです」
彼は私に一枚の契約書を差し出した。
「その見返りとして、私と結婚していただきたい」
「どうして……」
私は震える手で契約書を受け取った。
「どうして私を助けてくれるの?」
池田の眼差しが一瞬、揺らめいた。
「高校時代にお世話になった恩返しです。ただ、それだけですよ」
恩返し? 私がいつ彼を世話したというの?
「私は良い人間ではありませんから。これは、まあ、恩情の返済といったところです」
彼は自嘲気味に笑った。
「もし、よろしければ」
私は契約書に書かれた数字を見た。それは天文学的な数字だった。神崎家を再興させるのに十分すぎるほどの巨額だ。
「池田さん、私、承知します」
彼は手を伸ばし、小指で私の小指を絡めた。
「では、これで決まりですね」
彼のその手が、激しく震えていたのを、私ははっきりと覚えている。
あの震えは、決して緊張からくるものではなく、何か強烈な感情が心の中で荒れ狂っていたからに他ならない。
けれど、当時の私はあまりに鈍感で、彼の瞳に宿るあの熱く、そして抑えつけられた愛情に、全く気づかなかったのだ。
三年の結婚生活、池田は私に良くしてくれた。痛々しいほどに。
彼は私のどんな決定にも干渉せず、私のわがままと冷たさを黙って受け入れた。毎朝、愛情のこもった弁当を用意し、夜は退屈なメロドラマに付き合ってくれ、病気の時には夜中に起きてお粥を作ってくれた。
甘い言葉を口にすることは滅多になかったが、その行動で無償の愛とは何かを体現していた。
しかし私は、それをただの責任感からくるものだと思い込み、彼が心から私を愛していることには、一度も気づかなかった。
彼が死んだ後、金庫の中であのピンク色の日記を見つけるまでは……。
『桜丘高校入学初日。神崎知恵が僕の朝食を買いに来てくれた。彼女は綺麗だ。息が詰まるほどに。彼女に首輪をつけられたい。彼女の犬になりたい。こんなことを考える僕は、本当に罪深い』
『神崎さんの夢を見た。あんなに純粋な人なのに、僕はこんな汚れた考えで彼女を汚してしまう。彼女を愛する資格なんてない。遠くから見ているだけで十分だ』
『神崎さんが僕との結婚に同意してくれた。僕は世界で一番の幸せ者だ。たとえ彼女が僕を愛していなくても構わない。彼女の笑顔を見て、彼女の世話を焼けるだけで、僕の人生には意味がある』
『また胃が痛み出した。もし僕が死んだら、神崎さんは泣いてくれるだろうか。いや、やめておこう。やはりこっそりと死のう。彼女に迷惑をかけたくない』
どのページにも、燃えるような愛情と、自らを苛む苦しみが綴られていた。彼は私を十年も愛していたのに、一度もそれを口に出せなかったのだ。
「あなたって本当に大バカ!」
私は机に突っ伏し、涙がぼろぼろとこぼれ落ちた。
「どうして直接言ってくれなかったのよ!」
前の席のクラスメイトが振り返り、心配そうに尋ねてきた。
「知恵、どうしたの?」
「なんでもない。ただ、夏目漱石に感動しちゃって」
私は乱暴に涙を拭った。
今世では絶対にあなたの口をこじ開けて、心の中を全部吐き出させてやるんだから!
放課後、私は現在の池田に関する情報を集め始めた。
「池田究? あの噂の試験マシーンのこと?」
隣の席の恵美は、私が池田について尋ねると、途端に生き生きとし出した。
「彼はうちの学校のレジェンドだよ!」
「噂の試験マシーン?」
「そうだよ! 学年一位、全教科満点。『歩く参考書』って呼ばれてるの」
聡子は指を折りながら数える。
「それに、公認のイケメン。残念ながらクールすぎて、女の子とは全然話さないけどね」
私は頷いた。それは私の印象と合致している。
「でも、家はすごく貧しいんだって」
別のクラスメイトがゴシップ好きの顔で割り込んできた。
「学費と生活費を稼ぐために、毎日バイトを三つも掛け持ちしてるらしいよ」
「三つも?」
私は眉をひそめた。
「朝はたこ焼きの屋台、午後はコンビニでバイト、夜はネットでプログラミングの副業をしてるって」
恵美は感心したように言った。
「大統領より忙しいんじゃないかな」
「学校のイケメンに選ばれた感想を聞かれて、なんて答えたか知ってる?」
別のクラスメイトが思わず噴き出した。
「彼、『イケメンって換金できますか?』って聞いたんだって」
皆がどっと笑った。
けれど、私は笑えなかった。十七歳の池田は、これほど大きな生活のプレッシャーを背負っていたのか。それであんなに冷淡で、人を寄せ付けないのも無理はない。
「そうだ」
恵美がふと何かを思い出した。
「池田くん、小さなプログラミングスタジオを立ち上げたらしいよ。ウェブサイトのデザインとかを請け負ってるんだって。収入は高くないけど、なんとか生活はできてるみたい」
プログラミングスタジオ?
私の目が輝いた。前世の池田が最終的に成功した企業家になれたのは、この小さなスタジオから始まったのだ。
「恵美、そのスタジオがどこにあるか知ってる?」
「確か、学校の近くの古いアパートの一室だったはず」
恵美は不思議そうに私を見た。
「知恵、どうしてそんなこと聞くの?」
私はミステリアスに微笑んだ。
「役に立つからよ」
計画が形になり始めた。
今の池田が一番気にしているのがお金なら、そこから攻めよう。神崎家のお嬢様という身分で、彼が断れない協力の機会を差し出すのだ。
彼を私のために働かせて、近くにいる者が先に得する









