第5章 譲位

今野敦史は顔に怒りを浮かべ、声もいくらか冷たくなっていた。

「中林秘書、聞いているのか」

中林真由は深く息を吸い、顔を上げて彼の目をまっすぐに見つめた。

「松本社長は二時間もお待ちになったそうで、今野グループには誠意がないと、私には会ってくださいませんでした」

「つまり、俺のせいだとでも言うのか?」

今野敦史は眉をひそめて彼女を見る。「中林真由、君は俺の秘書だ。こういうことは君がきちんとやるべきことだろう?」

「そうでしょうか?」

中林真由の視線が阿部静香に向けられる。

パシャッ!

阿部静香が持っていたデザートが床に落ち、彼女は怯えたように今野敦史の後ろに隠れた。「ごめんなさい、全部私のせいです。私が不注意で怪我をしたせいで、遅れてしまって……」

大粒の涙を次々とこぼす彼女を、中林真由は極めて平静な眼差しで見つめていた。

今野敦史はティッシュを抜き取って渡し、声も少し和らげた。

「君は来たばかりだ。君のせいじゃない」

彼は再び冷たい視線を中林真由に向けた。「この件を解決してこい。会社に役立たずはいらない」

中林真由は拳を握りしめ、ふと笑った。

「承知いたしました。では、私一人でこの商談をまとめた場合、規定通りインセンティブも倍になりますね?」

「フン、ああ。お前にそんな腕があればな」

今野敦史は鼻を鳴らし、阿部静香を連れてオフィスを後にした。

山崎奈々未が慌てて駆け寄る。「中林真由、松本輝はろくな人間じゃないわ。行っちゃだめ」

その時、中林真由の携帯が鳴った。病院からの支払い催促通知を見て、彼女はそっと唇を噛む。

「目の前のお金を稼がないなんて馬鹿よ。安心して、私には考えがあるから」

中林真由は彼女の肩を軽く叩き、背を向けてオフィスを去った。

松本社長がろくな人間でないのはもちろん知っている。だが、松本グループが今野グループにとって最大の顧客の一つであることも事実だ。

関係を維持するためであれ、インセンティブのためであれ、彼女は行かなければならなかった。

今回は受付を通さず、従業員用通路から直接社長オフィスへと向かった。

「中林さん、アポイントメントがまだです! お待ちください」

入口の秘書は顔色を変えたが、制止するには間に合わなかった。

松本輝はデスクの前に座り、目の前のいくつかの箱を困った顔で眺めていたが、中林真由が入ってくるのを見て、その目に驚きと艶めかしい光を浮かべた。

彼女はスタイルが良く、スーツを着ていても体の凹凸がはっきりとわかる。全身から色気が漂っているというのに、どこか冷たい顔立ちをしていて、思わず組み敷いて、激しく責めて泣かせたくなるような気にさせる。

松本社長は思わずごくりと唾を飲んだ。

中林真由は彼のいやらしい視線などまるで気づかないかのように、にこやかに腰を下ろした。

「松本社長、贈り物選びでいらっしゃいますか?」

彼女はテーブルの上のいくつかのアクセサリーケースを見て、それが女性への贈り物であるとすぐに察した。

松本輝が秘書に目配せすると、秘書はすぐにドアを閉めて出て行った。

彼は中林真由に向かって片眉を上げる。「ちょうどいいところに来てくれたな、中林秘書。今日は妻の誕生日なんだ。一つ選ぶのを手伝ってくれ」

「奥様は青色がお好きでいらっしゃいます。以前お店で青いイブニングドレスを注文されているのをお見かけしました。きっと今日お召しになるのでしょう。でしたら、こちらのサファイアのネックレスが一番お似合いかと」

中林真由は契約書を箱の下に敷き、彼の方へ押しやった。「高級感があり、資産価値もございます。ネックレスもビジネスパートナーも、このようなものを選ぶべきです」

「中林秘書の言うことにも一理あるな」松本輝は手を伸ばし、中林真由の手の甲を何度か撫でた。

中林真由は素早く手を引っ込め、吐き気をこらえながら口を開く。「松本社長、以前お話ししていた提携の件ですが、もし問題がなければ、サインをいただけないでしょうか?」

「急ぐな。贈り物は中林秘書が選んでくれたのだから、一緒に妻へ届けてくれ」

松本輝は契約書には目もくれず、そのまま立ち上がった。

中林真由は眉をひそめたが、すぐに荷物を持って後を追った。

松本輝は車に乗り込んだが、ドアは閉めず、隣の席を叩いた。「中林秘書」

「松本社長、私は助手席で結構です」

彼女が助手席のドアを開けると、そこには大きな花束が置かれていた。

松本輝は軽く笑う。「やはりこちらへ座ってくれ、中林秘書」

中林真由は深く息を吸い、後部座席に乗り込んだ。

車が動き出すと、松本輝はそわそわし始めた。

彼は中林真由の隣に移動し、大きな手を彼女の腰に回した。

「今野社長はダンスをやっていた学生を囲ったそうだな? 中林秘書もたまには違う味を試したくはないか?」

彼は腕に力を込めて彼女を抱き寄せ、中林真由は彼の胸を押して抵抗した。

「社長も仰ったではありませんか。私はただの秘書。社長に従って仕事をするだけです」

「そうか?」

松本輝はさらに力を込め、もう片方の手で中林真由の太ももを撫でた。

「では、中林秘書は自分のことを考えないのか?」

彼の言葉が終わるや否や、運転手は車を路肩に停め、素早く車を降りた。

中林真由は目を見開き、力いっぱい松本輝を突き放した。

「松本社長、今日は奥様の誕生日ですよ」

「だから、まずは前菜といく」

彼は中林真由の腕をがっしりと掴み、身動きを取れなくさせた。

「中林秘書が今日来たのは商談のためだろう? お宅の今野社長がお前を差し出したんだ。まだ意味がわからないのか?」

彼の湿った息が、濃い葉巻の匂いと共に吹きかかり、中林真由は思わずえずき、必死にもがいた。

バシン!

平手が中林真由の顔に叩きつけられ、彼女は頭がガンガンと鳴るのを感じた。

「好意を無にしやがって! 今野敦史に遊び尽くされた体で、今更純情ぶるな」

「俺様がお前を気に入ってやったんだ、光栄に思え。そんな煽るような格好をして、抱かれるためじゃないとでも言うのか?」

彼は中林真由の顎を掴み、無理やり顔を上げさせた。

「俺が気持ち悪いだと? 自分の価値をわきまえろ」

「俺を満足させれば、今野敦史がすっぽかした件は水に流してやる。だが、さもなくば……」

彼は中林真由の頬を軽く叩き、その手を下へ滑らせると、乱暴に彼女のシャツのボタンを引きちぎった。黒いレースのブラジャーがたちまち露わになる。

中林真由の高く盛り上がった胸を見て、松本輝はごくりと唾を飲んだ。

「クソッ、今野敦史の奴、ここ数年いいものを食ってたんだな」

中林真由もこの時になって我に返り、狂ったように抵抗を始めた。

しかし、流産手術を受けたばかりの女の身で、松本輝に敵うはずもなかった。

あっという間に松本輝に組み敷かれてしまう。

「中林真由、警告しておく。大人しく言うことを聞け。さもないと……」

突然、車の窓ガラスがコンコンと叩かれた。

今野敦史が険しい顔で車の外に立っていた。

松本輝は驚いて手を震わせ、中林真由はその隙に車のドアを開けて逃げ出した。

「今野社長」

今野敦史の視線は彼女の乱れた服と腫れ上がった顔に留まり、それから松本輝へと向けられた。

「松本さんの誕生日とは、松本社長もご機嫌麗しいようで」

松本輝は髪を整えて車から降り、軽蔑したように眉を上げた。「今野社長が贈ってくださったプレゼントには感謝しないとな」

「どういたしまして。なにしろ松本さんご本人からお電話でご招待いただいたのですから、行かないわけにはいかないでしょう」

今野敦史はさりげなくアクセサリーケースを取り出した。

「私にはまだ少々やることがありますので、後ほど伺います。プレゼントは恐れ入りますが、松本社長から先にお渡しいただけますか」

松本輝はそれを見て、それ以上は何も言わず、フンと鼻を鳴らして車に乗り込み去っていった。

中林真由はようやく震えながら立ち上がった。「今野社長」

「それがお前の考えた方法か?」今野敦史の口調は恐ろしいほど冷たかった。

中林真由は目を閉じ、一言も弁解しなかった。

今日、自分が愚かなことをしたことは確かだった。

「ありがとうございました」

「必要ない! 自分の仕事くらいきちんとやれ。俺に後始末をさせるな!」

今野敦史が言い終わるか終わらないかのうちに、彼の背後から阿部静香の甘ったるい声が聞こえてきた。

「今野社長、私たちはまだ行くんですか?」

彼女は怯えるように中林真由を見つめ、今野敦史の後ろに縮こまった。

今野敦史は優しく彼女の髪を撫で、怒りは瞬時に消え去った。

「もちろんだ。車に乗ろう」

彼は中林真由に振り返り、さらに冷たい口調で言った。「秘書の仕事すらまともにできないのなら、その座を譲るんだな」

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