第1章
「由香の具合が悪いんだ。結婚式は中止にしよう」
私は無表情のまま、手にしたウェディングベールを婚約者である達彦へと差し出した。
ほんの一瞬、彼の表情が揺らいだ。
私が『中止』の言葉をすんなりと受け入れたのは、これが初めてだったからだ。
達彦は上の空といった様子で、私に約束を口にする。
「遅くとも来月には、もう一度結婚式を挙げる」
もし以前の私なら、この一言が最後までしがみつくための原動力になっていただろう。犬のように彼の足にすがりつき、私を見捨てないでと哀願していたかもしれない。
だが今の私の心は、淀んだ死水のように静まり返っていた。
「葵、俺の話を聞いているのか?」
達彦は眉をひそめ、ネクタイを緩めながら腕時計に目をやった。私の沈黙がひどく気に入らないらしい。
私はただ、こくりと頷いた。
「ええ」
きびすを返し、スーツケースを開ける。そして普段着を丁寧に畳み、一枚ずつ中へとしまっていった。
彼の目から見れば、私は婚約者などではないのだろう。
待機状態の操り人形、といった方が正しい。
彼が『由香の体調が良くなった』と判断するその日まで待ち続け、そしてお決まりのように、あの重苦しいウェディングドレスを身に纏わなければならない。
この茶番劇は、三年の間にもう九回も繰り返されてきた。
みんなの前で「君に最高のものを与える」と彼が宣言した日のことを、私は今でも覚えている。
確かに彼は、十分すぎるほどの物質的な補償をしてくれた。
結局のところ、愛と尊厳を除けば、彼は私に何だって与えてくれるのだ。
その代償として、私は上流社会の笑い者になった。教会であれ試着室であれ、どこにでも彼が随意に投げ捨てられる哀れな女として。
今日の私の反抗的な態度が、達彦に原因不明の苛立ちを覚えさせているようだった。
なにしろ、これまでは彼が私の元を去ろうとするたび、私は薬を飲み、手首を切り、ヒステリックに泣き叫んでいたのだから。
彼は私の背中を睨みつけ、忌々しそうに吐き捨てた。
「荷物をまとめたくらいで、俺が引き留めるとでも思っているのか」
私はその言葉を遮った。
「恵美子おばあちゃんの家に、何日か泊まるだけよ」
もし恵美子おばあちゃんの体調が悪化していなければ、私は林野家の養女になどなっていなかったかもしれない。あの日までは、彼女だけがこの世界で唯一、私に温もりを与えてくれる存在だった。
林野夫妻が私を養女にしたのは、単に子供に恵まれなかったからだ。
だが、実の娘である由香が生まれると、私という『代用品』は当然のように部屋の隅へと追いやられ、誰にも気に留められることなく育った。
達彦の瞳には、見下すような色が浮かんでいた。
「勝手にしろ。だが、また感情を抑えきれずに配達員に変装して、病院まで俺を覗き見に来るのはやめろよ。葵、あの格好はあまりにも悪趣味だ」
その言葉に込められた嘲笑の意味を、私はすぐに理解した。彼はこれを、私が気を引くための新たな手口だと決めつけ、また病院へ行って由香との時間を邪魔するのではないかと警戒しているのだ。
由香が『病気』になるたび、彼は片時も離れずに彼女のベッドに付き添う必要があるのだから。
三度目の結婚式から達彦が逃げ出した後、私は配達員に変装して病室のドアを押し開けた。私の深い愛情に彼が感動してくれるのではないかと、胸を期待に膨らませながら。
しかし私の目に飛び込んできたのは、彼が口移しで由香にイチゴを食べさせている光景だった。
私に気づいた由香は、悲鳴を上げた。
愛する由香が怯えるのを見て、達彦は私が三ブロックも走って買ってきた熱いお粥を払い落とした。そして、医師や看護師たちの目の前で、私の鼻先を指差して怒鳴りつけたのだ。
「出て行け! お前はしつこく付きまとう犬か何かなのか」
私の手の甲は瞬く間に赤く腫れ上がり、水ぶくれができた。
わざとらしく声を潜めたヒソヒソ話が、針のように私の耳を刺す。
「あの人、達彦様に恥知らずにもまとわりついてるっていう養女らしいわよ。達彦様が由香様のために結婚式を延期するたびに、病院に乗り込んで騒ぎを起こすんですって。本当にみっともない」
「達彦様が見下すのも無理ないわね。どうせ由香様の身代わりにすぎないのに……」
その瞬間、私は服を脱がされて街中を引き回されている道化師のように、惨めでたまらなかった。
さらに皮肉なことに、結婚式が中止になるたび、由香への批判を少しでも避けるため、達彦はすぐに助手に公式声明を出させていた。
『不可抗力および個人的な理由により、達彦氏と葵氏の結婚式は再度延期されることとなりました』
なんと丁寧で事務的な言い回しだろうか。
だが、事情通を気取る者たちの曖昧な暴露によれば、この『個人的な理由』の正体は常に私だった。
最初は『マリッジブルーによる逃亡』。
二度目は『指輪が小さすぎると癇癪を起こしたため』。
……
いつもそうだった。由香を守るためなら、達彦は躊躇なく私を矢面に立たせ、私を気まぐれで、強欲で、嫉妬深く、悪辣な女に仕立て上げた。
上流社会のコミュニティにおいて、私はいつまでも色褪せることのない笑い話の種だった。
しかし今回ばかりは、達彦の警告も無意味だ。
私は躊躇うことなく背を向けた。
「この先一生、二度とあなたたちの邪魔はしないわ」
達彦は数秒間、呆然と立ち尽くしていた。
私が車のドアを開け、長らく停められていた車に片足を踏み入れたとき、彼はふと何かを思い出したようだった。玄関の階段に立ったまま、苛立たしげに予定を告げる。
「来月の十日にまた式を挙げる。忘れるなよ」
私は思わず吹き出しそうになった。
なんて奇遇なのだろう。
私の手元にある航空券に印字された出発日もまた——来月の十日なのだから。
