第1章
樋口浅子はその薄い病状危篤通知書をじっと見つめていた。
胃がん末期。
命はあと三ヶ月しかない。
白い紙は死亡通知書のように、彼女の目を痛いほど刺した。
スマホが震え、夫の愛人からのメッセージだった。
「裕樹お兄ちゃんは今こっちにいるの。さっきすごく激しかったわ」
添付された写真には男の裸の肩が写っていた。顔ははっきり見えなかったが、樋口浅子はその肩にある赤いほくろを見て、それが相澤裕樹だと分かった。
「樋口浅子、わかってよね、さっさと離婚してくれない？」
「あなたみたいな汚い女が裕樹お兄ちゃんのそばにいたら、一生幸せになれないわ！」
「結婚して何年も経つのに、あなたに触れたことある？知らないでしょ、彼が私にどれだけ熱心か、ずっと離れたくないって…」
スマホには次々とメッセージが表示された。
一言一言が心を刺し、一文一文が刃のようだった。
樋口浅子の体は抑えきれずに震えた。
彼女は深く息を吸い、相澤裕樹に電話をかけた。
「離婚しましょう」
三年前の諦めきれない気持ちから、今は運命を受け入れる時だった。
人生の最後の三ヶ月、樋口浅子は相澤裕樹を解放し、自分自身も解放することにした。
電話の向こうで数秒の沈黙があった。
相澤裕樹は無関心に嘲笑った。「また何をしようとしてるんだ？樋口浅子、今度は駆け引きか？」
おそらく愛人に刺激されたのだろう、樋口浅子は声の震えを必死に抑えた。
「今夜、私に付き合って」
彼女の声は風のように柔らかく、しかし悲しみを帯びていた。
しかし相澤裕樹の声はいら立ちを隠さなかった。「何に付き合えというんだ？」
彼女の心は小さく震え、こう言った。「私と寝て、本当の夫婦になって、それからきれいに別れましょう」
次の瞬間、相澤裕樹は冷笑した。「きれいに別れる？そんな資格があるのか？」
「どうした？家で寂しくて、前の情夫のところに行きたくなったのか？」
樋口浅子は相澤裕樹が誰のことを言っているのか分かっていた。二人がこうなったのは全て四年前のあの事故のせいだった。
説明しようとしたが、言葉は口元で飲み込んだ。
こんなことを言っても何の意味があるだろう？
彼は決して彼女を信じることはない。残り三ヶ月の命、当時の誤解を必死に晴らす必要もない。
「何も持たずに出ていくから、帰ってきて私に付き合って」
……
夕方六時過ぎ、樋口浅子は展覧会での全ての仕事を終えた。
相澤裕樹が五時に仕事を終えることを思い出し、長く待たせないように急いで家に向かった。
樋口浅子が家に戻ると、ドアは半開きになっていた。
彼女はそっとドアを押し開けた。家の中は真っ暗で、人の気配はなかった。
手探りで明かりをつけると、リビングの光景に樋口浅子の心は沈んだ。
整然とした空間は空っぽで、相澤裕樹の姿はなかった。
彼女は携帯を取り出し、相澤裕樹に電話をかけると、酔った不機嫌な声が返ってきた。
「何だ？」
樋口浅子は感情を必死に抑えながら尋ねた。「どこにいるの？」
「お前に関係あるのか？」相澤裕樹の声は冷たく、酔いが混じっていた。
「私と一緒に過ごすって約束したじゃない？私たちの最後の日なのに、藤原美佳と過ごすの？私だって他の男を…」
彼女の言葉は途中で遮られた。
「樋口浅子、離婚協議書は書斎にある。三年前に俺はすでにサインしてある。お前がサインすれば、好きな男を探せばいい」
そう言うと、相手は無情に電話を切った。
樋口浅子は苦笑いし、携帯を置いた。彼の冷たさにはもう慣れていた。
彼女はゆっくりと書斎に向かい、震える手で離婚協議書を取り上げた。
紙の上の冷たい文字が、彼女の目を刺した。
そのとき、スマホに新しいメッセージが届いた。
樋口浅子は相澤裕樹が気持ちを変えたのかと思い、興奮して携帯を手に取ったが、開いた瞬間、顔色は一気に青ざめた。
それはチックトックの動画だった。女性が艶めかしく喘ぎながら、男性の広い胸に寄りかかっている。カメラは赤いほくろのある男性の肩を捉えていた。
「裕樹お兄ちゃん、激しすぎるわ、もっとゆっくり…」
「まだ努力が足りないから、スマホをいじる余裕があるんだな」
「もう勘弁して、裕樹お兄ちゃん」
男女の艶めかしい冗談と声が続き、樋口浅子の心は次第に冷え切っていった。
しかしスマホは鳴り続け、新しい動画が次々と送られてきた。
樋口浅子は開きたくなかったが、まるで自虐的な衝動に駆られるように、全ての動画を最後まで見た。
動画の中の男が相澤裕樹だとは信じたくなかったが、あの慣れ親しんだ声と、男性の肩のほくろ、相澤裕樹以外に誰がいるだろう？
彼と藤原美佳が愛人関係にあることはずっと知っていた。キスをし、体を重ねることも。でも実際に目にすると、彼女は崩壊し、受け入れられなかった。
最後に、藤原美佳からのテキストメッセージ。
「樋口浅子、まさか裕樹お兄ちゃんを待ってるの？彼、疲れてるから帰らないわよ」
ようやくスマホが静かになったとき、樋口浅子も力なく冷たい床に崩れ落ちていた。
案の定、一晩中相澤裕樹は帰ってこなかった。
外で愛人と狂ったように過ごし、家で最後の夜を待つ妻のことなど忘れていた。
樋口浅子は苦笑し、しびれた足を支えて立ち上がろうとしたとき、ドアの外から足音が聞こえた。
狂ったように一晩過ごした彼がついに帰ってきたのか？
彼女は顔を上げ、虚ろな目で疲れた表情を見せた。
背の高い男が歩いてくるのが見えた。彼は酒の匂いを漂わせ、上着の襟元は乱れ、口紅の跡がついていた。
樋口浅子の視線はその鮮やかな口紅の跡に留まり、両目が痛んだ。
これは藤原美佳が彼女に見せびらかすためのものなのか？
そして普段は潔癖症の相澤裕樹がそんな藤原美佳の行為を許すなんて…
「まだ帰ってないのか？」
彼女を見た相澤裕樹は眉をひそめ、いら立った口調で言った。
樋口浅子は苦笑し、抑えきれない怒りを込めて言った。「相澤裕樹、今夜帰ってくると約束したのに、約束を破ったわね！」
相澤裕樹の口元に嘲笑的な笑みが浮かんだ。「約束を破った？それがどうした？樋口浅子、四年前はお前が俺を裏切り、俺の兄弟と一つのベッドで寝たんだ。最初に結婚を裏切ったのはお前だ」
樋口浅子は全身が震え、顔色が一気に青ざめた。「違うわ！あの時は…」
相澤裕樹の目が暗く沈んだ。「まだ言い訳をするのか？俺が自分の目で見ただけじゃなく、他にも大勢の目撃者がいる。間違ってるか？」
樋口浅子の心は刃で切られたように痛んだ。「でも…」
相澤裕樹は冷笑した。「他に何がある？」
「何もないわ」
震える手でペンを取り、離婚協議書にサインをした。
彼女はペンを強く置き、心の中の最後の希望が完全に崩れ去った。
「相澤裕樹、あなたの望み通り、今夜は別の男を探すわ！」
相澤裕樹は両方がサインした離婚協議書を見て、心臓の鼓動が一拍抜け、目が暗くなった。「好きにしろ」
彼の無関心な態度に刺激され、樋口浅子は目を赤くしながらバッグを持ってドアを激しく閉めて出て行った。
彼女は携帯を取り出し、親友の井上菜穂子にメッセージを送った。「菜穂子、男の人を紹介して、今夜すぐに！」
「どうしたの？相澤裕樹またあの女のところに行ったの？」
井上菜穂子は怒りを込めて言った。
樋口浅子は苦い笑みを浮かべた。「離婚したの」
「え？」井上菜穂子は驚いて口を覆った。「本当に離婚したの？」
「ええ」樋口浅子はうなずき、力のない声で言った。「今夜…男の人を紹介してくれない？この一度だけ」
「本当にいいの？わかったわ、いい人を紹介するわ」
街頭のネオンが輝き、樋口浅子がバーに入ると、騒がしい音楽と光が彼女を迎えた。
群衆の中で男女が笑い声を上げ、空気中にはアルコールと香水の香りが漂っていた。
井上菜穂子はすでにバーカウンターで待っていた。
二人は簡単に二杯飲み、井上菜穂子は彼女にルームキーを渡した。
「上の階よ、早く行きなさい。あなたの飲酒能力じゃすぐに倒れちゃうわ」
しかし樋口浅子はバッグから一錠の薬を取り出して飲み込んだ。
「何をしてるの？」井上菜穂子は驚いた。
「決心がつかなくて、忘れられなくて最後に後悔するのが怖いの」樋口浅子は笑った。「背水の陣を敷くしかないわ」
彼女は先に部屋に向かい、入るとすぐに大きなベッドに酔いつぶれた。
十分後、おしゃれな男性が部屋を見つけ、入ろうとしたところ、一発の拳で地面に倒された。
荒々しい声が響いた。「消えろ！」
その男性は恐怖に震え、顔を上げると、威厳があり非常に端正な容貌の相澤裕樹を目にした。
彼の目には恐ろしいほどの激しい怒りが光っていた。
