第2章
その男は驚いて逃げ出した。相澤裕樹は険しい顔で部屋に入り、ベッドの上で服装は整ったまま眠っている樋口浅子を見て、ほっと息をついた。
「樋口浅子、お前マジで度胸あるな。酒も飲めないくせにこんな状態まで飲むとか」
相澤裕樹は呆れて笑い、踵を返そうとした。
しかし、彼の服の裾が一本の手に掴まれた。
振り返ると、ベッドの上の女性の額には細かい汗が浮かび、口の中で何かを呟いていた。
「何て言ってる?」
相澤裕樹は身を屈め、耳を近づけた。聞こえてきたのは子猫のような嬌声だった。
「裕樹……熱い、行かないで……」
熱い吐息が彼の首筋にかかり、相澤裕樹の体が強張った。よく見ると、薬を盛られていることに気づいた。
彼は顔色を変え、さっきの男に一発殴っただけでは済まされないと思った。
一方、樋口浅子はまだ彼の名を呼び続け、息遣いはますます荒くなっていた。
「樋口浅子、目を覚ませ。病院に連れて行くぞ」
何かのキーワードに触れたかのように、樋口浅子は激しく抵抗し始めた。
「ダメ……行かない、病院なんて行かない!」
薄手の服が激しい動きで乱れ、雪のような肌が露わになった。相澤裕樹の目が赤みを帯びる。
「樋口浅子!お前、自分が何言ってるか分かってるのか?」
「病院はイヤ、欲しいのは……裕樹……」
「後悔するなよ」
疾風のような激しいキスが降り注ぎ、樋口浅子は一瞬だけ正気を取り戻した。
見知らぬ男と部屋に来てしまったのだろうか?
でも、この男の匂いは裕樹にそっくりで、間違いだと分かっていながらも、この過ちに溺れずにはいられなかった。
翌日、樋口浅子は熟睡から目覚め、ようやく自分が何をしたのか理解した。
体中の青紫の痕が、彼女の無謀な行動を物語っていた。
樋口浅子の最初の反応は逃げ出すことだった。慌てて服を着る。
ポケットを探ると、急いで出てきたため現金を持っていないことに気づき、仕方なく連絡先を残した。
「すみません、急いでたので現金を持ってなくて。連絡先を残したので、後で連絡してください。お金を振り込みますから」
「いくら払うつもりだ?」相澤裕樹は呆れて笑った。
この女、本当に男を探しに出かけたのか。もし自分が駆けつけなければ……
「え?普通、一晩いくらなのか分からなくて……後で連絡くれたら一緒に振り込みますので」
樋口浅子は相手の声が相澤裕樹にそっくりだと思いながらも、相手が水を止めて出てきそうなのに気づき、さらに焦った。
挨拶もせずにドアを開けて逃げ出した。
相澤裕樹が出てきた時には、彼女が慌てて逃げる姿しか見えなかった。
「本当に男漁りが上手くなったな、樋口浅子。いい度胸してるよ」彼は歯ぎしりした。
一方、樋口浅子は家に帰って急いで身支度を整え、画廊へ向かった。
朝の男性は彼女に友達申請をしてこなかった。樋口浅子がもしかして井上菜穂子が既に支払ったのかと考えていると、相澤裕樹から電話がかかってきた。
「裕樹……」樋口浅子の最初の反応は後ろめたさだったが、相手の言葉に遮られた。
「樋口浅子、離婚協議書にはもう署名したんだから、今日離婚届を出しに行こう」
彼の言葉は樋口浅子の心に槌で打ち付けるように響いた。
そうだ、もう離婚するのだ。だから彼女が誰かと寝たところで何の問題もない。
そう思いながらも、樋口浅子の胸は苦く痛んだ。
「……わかった」
「今、画廊にいるのか?相澤健太に迎えに行かせる。市役所で落ち合おう」
彼の声は冷たく、一片の未練も感じられなかった。
樋口浅子は悲しげに笑い、「わかった、市役所で会おう」と答えた。
市役所の前で、相澤裕樹は樋口浅子を見つめ、目に嘲りの色を浮かべた。
「昨日の夜中に出かけたのは、一日も待てずにどこかの野郎のところに行ったんじゃないだろうな?」
樋口浅子はすぐに反撃した。「それがどうしたの?あなただって藤原美佳のところで一日中過ごしたじゃない。帰ってくると約束したのに……」
彼女の声は次第に詰まり、涙ぐんできた。
相澤裕樹は彼女の泣き顔を見ると、抑えきれない苛立ちを覚えた。
「じゃあ、どうしたいんだ?」
樋口浅子は指先で涙をぬぐい、冷たい表情で言った。「取引として、約束を守らなかったんだから、私も一文無しで出て行くわけにはいかないわ」
相澤裕樹は「やっぱり」と思った。
「はっ、樋口浅子、ようやく本性を現したな。いくら欲しいんだ?」
「20億、いや、60億円よ!」
60億円は相澤裕樹にとって大した金額ではないが、その現金流動性を確保するのは少し面倒だった。
円満に別れられないなら、別れる時も相澤裕樹を困らせてやりたかった。
「お前、自分が何様だと思ってる?汚れた女が俺に60億円だと?」相澤裕樹はやはり眉をひそめた。
「じゃあ離婚しなければいいじゃない!藤原美佳を家に迎えるのに急いでるんでしょ?どれだけ待てるか見ものね」
樋口浅子は開き直ったような態度を見せた。
相澤裕樹の胸中にはまた苛立ちが湧き上がった。
「樋口浅子、本当に安っぽいな。その立場を利用して俺を脅すのか?いいだろう、60億円だな。払ってやる!」
彼は無駄口を叩かず、スマホを操作すると、樋口浅子のスマホが「ピン」と通知音を鳴らした。
樋口浅子はスマホを開き、笑顔を装いながらゼロの数を数えた。
「さすがね、相澤社長。好きな人のために場所を空けるなら、気前がいいのね」
彼女は素早く背を向け、相手に涙を見せないようにした。
「相澤社長が気前がいいなら、私もすっきりさせましょう。行きましょう、手続きを」
手続きは驚くほど早く、10分もかからなかった。
樋口浅子は離婚証明書を受け取り、可笑しく思った。
「今日から、私たちは完全に他人ね。早く美人を手に入れることを祈ってるわ」
樋口浅子は過去を振り返った。相澤裕樹の3年を無駄にしたが、今やっと終止符を打てる。
「待て」
彼女が立ち去ろうとした時、背後から相澤裕樹が呼び止めた。
「相澤社長、まだ何か?」樋口浅子の声は冷ややかだった。
しかし相手はビジネスライクな口調で続けた。
「3日後は祖母の誕生日だ。この3日間は私たちの離婚のことは表に出さないでくれ。二人を心配させたくない」
「3日後のパーティには俺と一緒に出席してほしい。パーティが終われば、本当に無関係になる」
樋口浅子は頷いて同意した。
「わかったわ、そうするわ」
彼女と相澤裕樹の間の恩讐は、確かに二人の年上の前で騒ぎ立てるべきではなかった。
特に相澤おじいさんは、樋口浅子をいつも孫娘のように可愛がってくれていた。相澤裕樹と彼女が喧嘩するたびに、相澤おじいさんはいつも彼女の味方をしてくれた。
樋口浅子が分別があると見て、相澤裕樹の表情はやや和らいだ。
「プレゼントとパーティドレスは俺が用意する。当日は早めに俺のところに来てスタイリングを」
しかし樋口浅子は断った。「プレゼントは既に用意してあるわ。それは心配しないで」
「祖母は目が肥えてるぞ。本当に俺の心配がいらないのか?」相澤裕樹は問い返した。
樋口浅子が確かに頷くのを見て、相澤裕樹は冷たく言った。
「好きにしろ。当日、俺の顔に泥を塗るなよ」
好意が仇で返される。心配は余計だったようだ。



































