第3章

小林舞香が体育館に入るころには、新人たちはもうウォームアップを始めていた。

松本菜々緒が申込書を差し出しながら、声を潜めてぼやく。

「……あの子、来たんだ」

「誰?」

小林舞香が1枚目をめくった瞬間、矢野汐里の写真が目に飛び込んできた。

推薦者欄には――矢野郁真。

チア部の選抜は厳しい。たとえ「新人」でも、半年の基礎練を積んで一次審査を通らなければ、選抜に参加する資格はない。

矢野汐里は練習場に顔を出したことすらないのに、ラグビー部主将の推薦で選抜に出られる。

規定上は問題なし。けれど胸の奥がざらついた。

写真を二秒だけ見つめ、小林舞香はページをめくる。

「始めよう」

選抜の種目は四つ。柔軟性、筋力、リズム感、そして動きの模倣。

汐里は本格的なトレーニングを受けておらず、結果は散々だった。筋力はまるで足りず、評価されたのはギリギリ及第点だった柔軟性だけだった。

二種目を終えた時点で、点は最下位。

小林舞香は採点ボードに書き込みながら、一度も顔を上げなかった。

それでも分かる。汐里が見ている。動き終えるたび、こちらへちらり――。

緊張の目じゃない。

「どうせ私に何もできないでしょ」

そう言いたげな、傲慢さで満ちた視線。

選抜が半分を過ぎたところで、体育館の扉が開いた。

矢野郁真が入ってくる。

チームジャージ姿で、髪はまだ濡れている。シャワーを浴びたばかりなのだろう。

彼はコート脇に腰を下ろし、小林舞香に手を振った。

「汐里の様子、見たいんだ」

「初めての選抜だし、緊張してるだろ」

小林舞香は彼を見ないまま、無意識に一歩引いた。距離を取るみたいに。

郁真は気にも留めず、今度は汐里へ大きく手を振る。さらにスマホまで取り出し、記録する構え――まるで大事な瞬間を撮り逃したくないみたいに。

三つ目はリズム感テスト。

音楽が流れ、新人たちがテンポに合わせて基礎動作を繰り返す。

簡単なはずなのに、汐里は最初からズレた。

動きが止まり、唇を噛んで、悔しそうに郁真を見る。

郁真は親指を立てる。

「頑張れ!」

汐里はこくりと頷き、必死に追いかける。けれど動きは見苦しいままだった。

四つ目は模倣。

綾部由衣が8カウント×8の振りを見せ、新人がそれをなぞる。

汐里は四つ目で崩れ、隣にぶつかって不満の声を買った。

また止まり、泣き出しそうな顔でその場に立ち尽くす。

視線が、また郁真へ。

郁真は眉を寄せ、反射的に立ち上がりかけ――何か思い出したように、結局座り直した。

選抜が終わり、新人たちは結果待ちで外へ。審査側は集計に入る。

汐里は総合最下位。入れるはずがない。

けれど推薦者が矢野郁真。全員の視線が、小林舞香に集まった。

松本菜々緒が先に言い切る。

「矢野汐里は無理」

綾部由衣は舞香と扉の方を見比べ、小声になる。

「でも……矢野郁真、外で待ってる。ラグビー部主将だし」

ラグビー部の発言力は強い。上級生も理事も目をかけている。推薦を無視しづらい。

それに――彼は小林舞香の彼氏、なのに。

小林舞香は返さず、全員の点をもう一度計算した。結果は変わらない。最下位。

「点数で決める」

ペンを置く。

「他の子に公平でしょ」

その一言で、皆がようやく息をついた。

こんなレベルを入れたら、チームが壊れる。

名簿を手に体育館を出ると、郁真が寄ってくる。

表情が硬い。声も、どこか冷たい。

「舞香。汐里、今日コンディション悪かった」

「うん」舞香は頷く。

「朝、ストロベリーラテ飲んでない。毎日飲んでるのに、今日は飲まなかったから、ちょっとふらついて――」

小林舞香は彼を見つめる。

「……それで?」

「もう一回だけ、やらせてやれないか」

「一回だけ。選抜のために三日間、練習したんだ……」

「他の子は最低半年」

舞香は遮った。

「チアは体力も身体能力も必要だよ。私だって一年鍛えて、やっと受かった」

郁真は言葉を喉に詰まらせ、反論できない。

気づけば汐里が背後にいた。郁真の後ろで俯いて、目尻が赤い。

「お兄ちゃん、もういい」

声はやけに健気で、弱々しい。

「私がダメだっただけ。誰かが意地悪したわけじゃないから、喧嘩しないで」

顔を上げ、小林舞香を見る。涙を溜めた目で。

「キャプテン、機会をくれてありがとう。次はもっと頑張る」

周囲の新人たちまで、こちらを窺っている。手にはミルクティー。郁真がさっき買ってきたものだ。

汐里に「もう一回」を許す空気を作るために。

「キャプテン厳しすぎじゃない?」

「もう一回くらい……私たち別に反対しないよ」

「そうだよ。矢野さんも説明してたし、ただ調子悪かっただけでしょ」

小林舞香は聞こえていても黙ったまま、名簿に署名し、松本菜々緒へ渡す。

「発表して」

郁真はその場に立ち尽くし、舞香を見たまま表情が変わった。

怒りじゃない。疲れ。何度も見た、「どうして分かってくれない」という顔。

「……そこまでやる必要あるか?」

ため息が落ちる。

「何を?」舞香は問い返す。

「新人で、まだ若い。ちょっとくらい譲れないのか?」

譲る。

また、その言葉。

小林舞香は長いこと彼を見た。

試合に来なかったこと。ソファの下着。クローゼットの、知らない服。

そして数時間前――もう一度だけ信じよう、と決めた自分。

それから、思い出す。

自分のほうが、汐里より一つ年下だった気がすることも。

「午後、専門の試験あるんでしょ」

腕時計を見る。

「行って」

郁真は何か言いかけ、結局飲み込んで背を向けた。

汐里は二歩追ってから振り返り、小林舞香を一瞥する。

涙はもう、消えていた。

「見てないで」松本菜々緒が舞香を引っ張って座らせる。

「膝、腫れてる。休みな」

「後は私と由衣でやるから。……ていうか、このミルクティーさ。お前ストロベリー嫌いなのに。矢野郁真ほんと……」

こんなに買って、全部ストロベリー。

彼女の好みじゃない。

小林舞香は何も言わなかった。

古傷がじくじく疼き、膝が少し腫れている。短パンだから皆が気づく。けれど郁真だけは気づかない。

彼の視界にあるのは「汐里が落ちた」ことだけ。ほかは、見えない。

スマホが震えた。

小林修平からのメッセージ。

「晩飯、何がいい」

画面を見つめると、胸を塞いでいた重さが、ほんの少しだけほどけた。

友だちも、年上も――気にしてくれる人はいる。

迷いながら、返信する。

「今夜、私がおごってもいい?」

すぐに返ってくる。

「学校まで迎えに行く」

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