第4章 譲歩
選抜の結果が出てから、矢野汐里は二度と顔を見せなかった。
午後の講義が終わり、小林舞香が校舎を出ると、入口に矢野郁真が立っていた。手には白い薔薇。周囲では何人かがスマホを向けている。
「舞香」
彼は歩み寄り、花束を差し出した。続けてベルベットの箱を取り出す。中にはピアスが一組。
「優勝祝い、ちゃんと渡せてなかっただろ。追加のプレゼント」
「汐里にも選ぶの手伝ってもらって、けっこう時間かかったんだ。女の子はこういうの好きだって」
そこで少し言葉を切り、彼はまっすぐ舞香を見た。
「いっぱいつらい思いさせたのは分かってる。でも、俺が舞香を好きなのは、誰よりお前が知ってるはずだ」
「許してくれないか」
小林舞香は、彼の手の中のピアスを見つめた。大ぶりな石。色味も華やかすぎる。自分の趣味じゃない。
それでも、雨の中で一晩待っていたことを思い出す。今の真剣な顔も。さっき、自分を傷つけたとちゃんと認めたことも。
舞香はそのピアスを受け取った。
「これで最後だから」
二人で校門を出たところで、舞香のスマホが震えた。小林修平からのメッセージだった。
「急な仕事が入った。今夜は戻らない。冷蔵庫に食べる物あるから、適当に食ってくれ」
今夜は一緒に食事ができないと、どう説明しようか迷っていたところだった。なのに向こうから先に予定を外してきた。
小林舞香はこっそり息をつき、急いで「分かった」と返す。
それからの三日間、矢野郁真は本当に変わった。
毎朝、校門で彼女を待っている。手には、舞香がいちばん好きなコーヒー。
午後、練習が終わる頃にはきっちり体育館の前に現れる。お菓子の入った袋を提げていて、中身はどれも彼女の好物だった。
誰もが羨ましがった。
体育館の更衣室で、松本菜々緒が肩をどんとぶつけてくる。
「矢野郁真、ようやく目ぇ覚めたって感じ?」
横では綾部由衣も笑っていた。
「ほんとだよね。女子みんな羨ましがってる。なんで急にあんな気が利くようになったの?」
小林舞香は何も言わなかった。けれど、口元だけ少し緩む。
全部うまくいっているように見えた。
なのに、それをまたかき乱したのは矢野汐里だった。
彼女がインスタを更新したのだ。
載っていたのは、青あざの浮いた膝の写真。背景は、まぎれもなくチア部の練習場。
「実力があるだけじゃ入れないんだね。これからも頑張ります」
コメント欄はすぐに荒れた。
「これってチア部の選抜のこと?」
「ラグビー部のキャプテンが直々に推薦してたんでしょ? 汐里なら実力あるはずなのに、なんで落ちるの?」
「小林舞香の彼氏って矢野郁真だよね。彼氏が推薦した子をチア部に入れるなんて、そりゃ許さないでしょ」
矢野汐里が返したのは、その最後のコメントだけだった。
「お兄ちゃんは十分頑張ってくれたから、責めないであげて」
小林舞香がそれを見たのは、体育館で備品を片づけている最中だった。
二秒だけ画面を見て、スマホを伏せる。何事もなかったように作業を続けた。
そこへ松本菜々緒が駆け込んでくる。スマホを目の前に突きつけながら、怒りを隠しもしない。
「見た? あいつ何、被害者ぶってんの? 最下位だったのは自分じゃん。実力不足なのも自分。なのに舞香がいじめたみたいな流れにしてる!」
「うん」
舞香が頷くと、菜々緒は目を丸くした。
「それだけ?」
「じゃあ何すればいいの」舞香はため息をつく。「髪でも引っぱる?」
松本菜々緒は一瞬、言葉に詰まった。
小林舞香は最後の包帯を棚にしまい、ロッカーの扉を閉める。
「放っとけばいいよ」
翌日、チア部の鈴木監督に呼ばれ、舞香は監督室へ向かった。
「今日、矢野汐里が私のところに来たの」
鈴木監督は単刀直入だった。
「正規メンバーの枠はいらない、補欠でいいから入れてほしいって」
そこで少し間を置く。
「それと……彼女のお父様は理事なの。もし入部が決まれば、来学期の海外交流の予算がかなり安定するわ」
「ほかの子に不公平なのは分かってる。でも、海外派遣の枠は毎年8人しかないのよ。あと2人分でも増やせるなら、チーム全体には大きい」
鈴木監督は舞香を見た。
「あなたの考えを聞きたいの。キャプテンとして」
小林舞香は数秒黙り、それから言った。
「私は反対です」
「理由は?」
「チア部にはチア部のルールがあります。補欠でも選抜を通らないといけません。保護者の力があるからって、そこだけ例外にするのは違います」
「実力が足りない子を入れたら、チーム全体の足を引っぱります」
鈴木監督は静かに頷いた。それ以上は何も言わず、「分かった、もう戻っていい」と彼女を下がらせた。
その日の午後。
矢野郁真は練習に来ず、まっすぐ小林舞香のところへやって来た。
「今日、鈴木監督に汐里をチア部に入れるのは反対だって言ったのか?」
小林舞香は頷く。
「なんで? 正規メンバーじゃない。ただの補欠でもダメなのか?」
「規則だから」
矢野郁真の声が強くなる。
「舞香、お前に筋を通したい気持ちがあるのは分かるよ。でも、今回くらい融通きかせられないのか?」
「無理」
「汐里、もうすぐ母親の命日なんだ。この数日ずっと気分が落ちてる」
彼の声はさらに硬くなった。
「何かに集中してないと持たないんだよ。なのに、なんでわざわざあいつを締め出すみたいなことする?」
「それに、汐里が入れば、うちの親父がチア部の活動費を増やしてくれる。悪い話じゃないだろ」
小林舞香は静かに彼を見た。
そうだ。忘れていた。矢野郁真の父親は、矢野汐里にとっても義父だ。あの二人こそが、本当の家族なのだ。
「だから?」舞香は問い返す。
「理事の娘だから、選抜を通ってなくても入部できるってこと?」
「補欠だって言ってるだろ。枠は食わない」
「補欠でも選抜は必要。あの子にはその力がない」
「まだ若いし――」
「私より一つ上だけど」
小林舞香が遮ると、矢野郁真は詰まった。
彼は彼女を見つめる。苛立ちが、やがて諦めにも似た表情に変わる。
どうしてそこまで言い返すんだ――そう責めるような、あの顔。
「汐里の母親の命日が近いんだ」
今度は声を落としてきた。
「この二日、まともに眠れてない。昨日だって、夜中に電話かかってきて、一時間ずっと泣いてた」
彼は疲れたように息を吐く。
「舞香、俺に免じて頼むよ。入れてやってくれないか」
小林舞香は彼の目を見た。
充血。疲労。寝不足。
そして、自分ではない別の女に向ける痛ましさ。
彼女はそっと目を閉じ、もう一度はっきり言う。
「嫌」
「お兄ちゃん、もういいよ」
いつからそこで聞いていたのか、矢野汐里が横から現れた。目元は赤く、泣いた直後みたいな顔をしている。
「お兄ちゃん。キャプテンが嫌だって言うなら、それでいいから」
彼女は矢野郁真の手を取った。
「私なんかのために喧嘩しないで。どうせ私、誰にも大事にされないし。分かってるから」
「そんなわけあるか!」
矢野郁真は即座に言い返した。
「お前が大事にされてないわけないだろ。お前は俺の妹だ」
「俺も、親父も、お前を大事に思ってる。ちゃんと愛してる」
愛してる。
その一言が、まっすぐ胸に刺さった。
小林舞香はその場に立ち尽くし、互いを見つめ合う二人を眺める。
急に、どうしようもなく疲れた。
もう戻ろう。そう思って身を翻した、その瞬間。
背中にどん、と強い力がかかった。誰かが思いきり押したのだ。
小林舞香は反射的に後ろへ手を伸ばす。爪が矢野汐里の腕をひっかき、そのまま身体が大きく傾いた。
次の瞬間、床へ激しく叩きつけられる。
「ごめんなさい、キャプテン!」
矢野汐里がすぐに泣き声を上げた。
「私、ただ説明したかっただけなんです……ごめんなさいっ。わざとじゃないんです!」
膝に、焼けるような痛みが走る。
小林舞香は息も詰まり、声にならない。
なんとか顔を上げる。
けれど目に入ったのは、矢野郁真が矢野汐里を強く抱きしめる姿だけだった。彼は舞香を一度も見ない。
「汐里、大丈夫だ。怖がるな」
「誰もお前を責めない」
「わざとじゃないんだろ。あいつが勝手にバランス崩しただけだ。お前のせいじゃない」
小林舞香は唇を動かした。
出てきたのは、たった一言。
「……目ぇついてないの?」
