第1章
結婚して五年目。谷口凛華は仕事を早めに切り上げ、夫・桐生朔弥の誕生日を祝うために家へ急いだ。けれど玄関先で、思いもよらない「息子の願い」を耳にしてしまう。
「パパ、日奈さんと一緒になってくれない?」
幼い声が、鋭い刃みたいに胸の奥へ突き刺さる。
階段の途中で足が止まり、凛華は視線を落とした。
桐生颯馬が、隣に立つ女の手をぎゅっと握りしめ、憧れに満ちた顔で見上げている。
そして桐生朔弥はその横で二人を眺め、いつもは淡い眉目に、今はかすかな笑みを浮かべていた。
「日奈さん、これから……ママって呼んでもいい?」
颯馬が首を傾げ、追い打ちをかける。
凛華の視線が、女へと落ちる。
谷口日奈。桐生朔弥の元婚約者。
家柄も釣り合い、結婚目前だった二人――その直前に割り込んだのが凛華だと、世間は囁いた。
日奈は腹を立てたように海外へ渡り、半年前、突然戻ってきた。しかも強引な態度で凛華の生活へ踏み込み、あっという間に朔弥と颯馬の心を掴んでいった。
日奈は唇の端をほんの僅かに上げ、すぐにわざとらしく眉を寄せる。
「颯馬、そんなこと言っちゃだめ。パパとママが聞いたら、嫌な気持ちになるでしょ」
その言葉に、颯馬は唇を尖らせた。
「嘘じゃないもん! パパは怒らないよ! 昨日、パパの書斎で離婚の書類見たもん!」
その声が凛華の耳に落ちてくる。
唇が勝手に、苦い笑みに引きつった。
嘘じゃない。だって――その離婚協議書を、彼女は三十分前に自分の目で見ている。
内容はやけに丁寧だった。桐生家の財産は一切関係なし。息子・颯馬は桐生家が引き取る。代わりに、結婚五年の補償として6000万の安置金。
……ずいぶん太っ腹じゃない。
凛華は階段を下りる。足音に気づき、リビングの三人が振り返った。
最初に反応したのは日奈だった。にこやかに笑いかける。
「谷口さん、どうして戻ってきたの?」
そして親しげに手招きする。
「ちょうどいいわ。今日は朔弥兄さんの誕生日なの。一緒にケーキ食べましょ」
まるでこの家の女主人みたいに凛華を招き入れる。
だが、その隣の二人は同時に眉をひそめた。凛華の帰宅が心底迷惑だと言わんばかりに。
凛華は足を止める。
この数日、朔弥の誕生日に間に合わせたくて、昼も夜もなく仕事を詰めたことが脳裏をよぎった。
半月分の作業量を十日ほどで無理やり終わらせ、同僚の不満が爆発しかけた。何度も頭を下げ、食事を奢って、ようやく宥めた。
そのうえ帰り道で交通事故に遭い、幸い大事には至らなかったが、腕には大きな擦り傷が残った。
運転手は病院へ行こうと言った。でも凛華は誕生日に遅れたくなくて、近所の診療所で慌ただしく処置だけ済ませ、家へ急いだ。
玄関のドアを開けたときは、朔弥と颯馬が喜んで迎えてくれる――そんな馬鹿みたいな幻想を抱いていた。
現実は、書斎の離婚協議書だった。
問い詰めようと階段を下りた矢先、颯馬のあの言葉。
彼女がした努力のすべてが、滑稽な冗談みたいに思えた。
凛華がテーブルへ近づくと、日奈がさっと水を注ぎ、ケーキを切って差し出す。
「颯馬と私で作ったの。ほら、食べてみて」
その一連の自然さが、凛華だけを余所者にした。
凛華は横目で日奈を見ると、ふっと笑った。
「うち、いつから新しいお手伝いさんを雇ったの? 私、聞いてないんだけど」
日奈の目に浮かんでいた得意げな光が、一瞬で固まる。次の瞬間には、傷ついた顔で朔弥へ視線を投げた。
「悪いママ!」
颯馬がすぐに両腕を広げ、日奈を庇うように立つ。「日奈さんは僕の誕生日してくれるために来たんだ! いじめちゃだめ!」
胸の奥が、ずきんと痛んだ。
凛華は俯いて、手塩にかけて育てた息子を見つめる。心臓に大きな穴が空いたみたいだった。
「……私が、悪いママ?」
凛華が小さく尋ねると、颯馬は面倒くさそうに言い捨てた。
「そうでしょ? ママはいつも家にいない。僕が熱出したときも、日奈さんしか一緒にいてくれなかった。僕、ママ嫌い。なんで帰ってきたの?」
血の気が引いて、凛華の身体がふらつく。
――本当は、いつだって傍にいたかった。
けれど、それが許されなかった。
出産直後、凛華は思った。子どもができれば、朔弥との関係も少しは変わるかもしれない、と。
だが朔弥の嫌悪は、想像を遥かに超えていた。
子どもが生まれても関係は良くなるどころか、さらに遠ざかった。
「谷口凛華。子どもを利用して目的を果たそうとするな」
冷たい言葉。
そしてその日から朔弥は「海外市場の開拓」という名目で、半年も国外にいた。連絡は一度も返ってこない。電話もメッセージも、海に沈んだ石みたいに消えた。
凛華は朔弥への期待を少しずつ消し、心の全部を颯馬へ注いだ。
――この子と一緒に生きていければ、それでいい。
食事、入浴、病院。全部ひとりでやった。
赤ちゃんだった颯馬がよちよちと歩き出し、笑って抱きついてきて、「ママ、きれい」と言ってくれた日々。
けれど時間が経ち、颯馬が幼稚園へ通うようになると、ある日こう言った。
「ママ、みんなのママは働いてるのに、なんでママは家にいるの?」
「それに、みんなが言ってた。ママはパパのお金目当てで結婚したって。どういう意味?」
颯馬が通う幼稚園はH市でも名の知れた私立。子どもたちの家は、金も地位もある家ばかり。
凛華の結婚はもともと噂になりやすく、息子が自分のせいで排除されるのが怖かった。
だから凛華は仕事に戻った。大学の専攻はプログラミング。AIブームの波にも乗り、忙しさは増していった。
それでも、できる限り時間を作って帰宅した。睡眠を削って早起きし、朝食を作った。
……理解してくれるはずだと、信じていた。
全部、思い上がりだった。
「谷口凛華。日奈に謝れ」
不意に、朔弥の冷えた声が凛華を現実へ引き戻す。
凛華は顔を上げる。端正で淡い目元。
胸の中で、レモン汁をぶちまけたみたいに酸っぱくて苦いものが広がり、目の奥が熱くなる。
彼は――自分に、あの女へ謝れと言うのか。
「謝れって? 無理よ」
凛華は一言一言、噛みしめるように言った。
朔弥は眉をひそめ、薄情に言い放つ。
「謝らないなら出ていけ。空気を壊すな」
日奈が善人ぶって口を挟む。
「朔弥兄さん、そんな言い方しないで」
だが颯馬はすぐ同調した。
「そうだよ! 日奈さんに謝らないなら、さっさと出てけ! 僕ら、誰もママが帰ってきてほしくない」
父と子が揃って同じ言葉をぶつけてくる。
凛華の心に残っていた最後の希望が、じゅっと音を立てて消えた。
震える目で、凛華は信じられないように問う。
「……あなたたち、彼女のために……私を追い出すの?」
朔弥は青ざめた彼女を見て、不機嫌そうに言った。
「自分のしたことに謝れないなら、桐生家にも颯馬にも、お前みたいな妻も母も必要ない」
