第3章

それからというもの、本社は谷口凛華に三度も連絡を寄越した。

話を重ねるうちに、凛華は思いがけない事実を知る。この計画には軍も関わっていること。成功すれば、参加者には相応の褒賞が与えられ、国家技術研究院への道すら開けること。

胸が動かなかったわけじゃない。

それでも彼女は、桐生颯馬のために、すべて丁重に断ってきた。

けれど――まだ、取り返せる。

そう思い、谷口凛華はゆっくりとうなずいた。

「決心はついています」

瀬川部長はわずかに言いよどみ、それから口を開く。

「この件は、ひとまず上に伺いを立てないといけない。返事が来るまで待ってくれ」

上というのは、おそらく桐生朔弥のことだろう。

だとしたら、ずいぶんな杞憂だ。

あの男の性格を思えば、むしろ一日でも早く自分が消えることを願っているはずなのだから。

凛華は記入済みの申請書を差し出し、静かに会釈した。

「お手数をおかけします。結果が出ましたら、すぐにご連絡ください」

「ああ、わかった。もう戻っていい」

瀬川部長は気のない仕草で手を振る。

谷口凛華が部屋を出ていき、足音が完全に遠のくのを待ってから、彼はすぐに一本の電話をかけた。

繋がった瞬間、媚びるような声音になる。

「桐生社長、先ほど谷口凛華さんが申請書を持ってきまして、その、本人は参加を希望しているようで――」

「H市に残らせなければ、それでいい」

桐生朔弥は、最後まで聞こうともしなかった。

「あとはお前の裁量に任せる。今後も外地への派遣は長ければ長いほどいい。できるだけ現地に張りつかせておけ」

言うだけ言って、通話は一方的に切れた。

そこまでか。

瀬川部長は感心したように舌を鳴らし、申請書を見下ろす。

桐生朔弥の谷口凛華に対する嫌悪は、思っていた以上に深いらしい。

小さく首を振ると、彼はそのまま書類に承認印を押した。

そのころ、谷口凛華は別荘の門の前で、瀬川部長からの電話を受けていた。

「谷口さん、本社の承認は下りたよ。30日後には異動辞令が出る。今のうちに準備を進めておいてくれ」

予想どおりだった。

凛華は音もなく唇の端を上げる。

「承知しました。ありがとうございます、瀬川部長」

通話を終え、扉を開ける。

すると中から、くぐもった不満げな声が聞こえてきた。

「石村おばあちゃん、ママってなんであんなに嫌なんだろ」

桐生颯馬の声だった。

「いつも家にいないくせに、帰ってきたら僕のことばっかりうるさいし、日奈さんまでいじめるし。パパがママと離婚してくれたらいいのに」

家政婦の石村は、困り果てたように口ごもる。返す言葉が見つからないのだろう。

けれど颯馬は気にも留めず、さらに言い募った。

「石村ばあやは、あんなの怖がらなくていいよ。もし怒られたら、僕がパパに言って追い出してもらうから」

あまりにも当然のように言い切る、その口ぶり。

谷口凛華の胸は、すうっと冷えきっていく。

かつて腕の中で甘えた声を弾ませ、「ママ」と呼んでくれたあの子は、もうどこにもいない。

今ここにいるのは、谷口日奈を守るためだけに尖った、小さな刃だった。

「……ママ?」

いつの間にか振り向いた桐生颯馬が、彼女の姿を見つけて肩を跳ねさせる。

幼い顔に一瞬だけ後ろめたさがよぎった。

だが次の瞬間には、虚勢を張るように胸を反らす。

「べつに、僕――」

谷口凛華は何も言わなかった。

そのまま彼の横を通り過ぎ、まっすぐ二階へ向かう。

言いかけた言葉を飲み込んだまま、桐生颯馬はその場に取り残された。

腹が立つ。

なのに、それだけじゃない。

今日はどうして、今までみたいに自分を叱らないのか。

手の中には、食べかけのソフトクリームがある。

いつもなら石村ばあやに片づけさせて、「甘いものばかり食べたら歯に悪いでしょ」と長々言ってくるはずなのに。

見えていないのか。

それとも――もう、言う気もないのか。

どくん、と胸が鳴った。

桐生颯馬は慌てて二階へ駆け上がり、谷口凛華の部屋へ飛び込む。

そこには、スーツケースを開き、荷物を詰めている凛華の姿があった。

胸の奥で、不安がじわじわと膨らんでいく。

何度か口を開きかけた。

けれど、どうしても声にならない。

やがて谷口凛華が視線だけを向けた。

「何か用?」

その声音は平坦だった。

まるで見知らぬ相手に向けるみたいに。

桐生颯馬の脳裏に、不意に昔の彼女の姿がよみがえる。

いつだって笑っていて、どこか少しだけ、自分の機嫌をうかがうような顔で。

「颯馬、ママ帰ってきたよ」

「颯馬、お菓子はやめとこうか」

「颯馬……」

あの頃は、うるさいとしか思わなかった。

いっそずっと黙っていればいいのに、とさえ思っていた。

なのに本当に黙られると、なぜだかむしょうに腹が立つ。

「なんで僕のこと無視するんだよ!」

谷口凛華は淡々と返した。

「あなたは何か特別なものなの? 誰だって見かけたら構わなきゃいけないわけじゃないでしょう」

そして間を置かず、静かに言い切る。

「私はもうすぐ、あなたの母親じゃなくなるの。あなたの機嫌まで取る義務はないわ」

母親じゃなくなる――?

たとえパパと別れても、ママはママのはずだ。

違う。

ママが、僕をいらないって言ってる。

そう気づいた瞬間、桐生颯馬の胸にぐっと悔しさが込み上げた。

「だったら勝手にしろよ! 僕だって、べつにいらない!」

吐き捨てるように叫び、そのまま駆け出していく。

「坊ちゃま……!」

石村が慌ててあとを追った。

谷口凛華は振り向かない。

服も書類も、一つずつ静かにスーツケースへ収めていく。

あと一か月。

そのあいだ、どこで身を落ち着けるべきか。頭の中ではもう次の段取りを組み立てていた。

たったそれだけの期間のために部屋を借りるのは、正直面倒だ。

考えごとをしているうちに、時間はあっという間に過ぎた。

しばらくして、石村が青い顔で部屋を訪ねてくる。

「奥様……坊ちゃまがお部屋に閉じこもったまま、出てこられないんです。どういたしましょう」

谷口凛華は顔も上げなかった。

「旦那様にでも、新しいママにでも聞けばいいでしょう」

石村は目を見張り、言葉を失ったまま部屋を出ていく。

ほどなくして、窓の外から車のエンジン音が届いた。

谷口凛華の手が一瞬だけ止まる。

けれど次には、何事もなかったようにまた荷造りを続けていた。

――バンッ!

次の瞬間、扉が乱暴に蹴り開けられる。

鋭い威圧感をまとった桐生朔弥が、戸口に立っていた。

「谷口凛華、お前はいったい何を騒いでいる」

声は低く、凍えるほど冷たい。

「人を突き飛ばしたかと思えば、今度は子どもに『母親をやめる』だと? そんなもので俺を揺さぶれるとでも思ったか」

谷口凛華は最後の一枚をきちんと畳み終え、ようやく顔を上げた。

「まず、突き飛ばしたのは私じゃない」

澄んだ声で、ひとつずつ区切るように告げる。

「それから、私に母親でいてほしくないと言ったのは、桐生颯馬本人よ」

唇に薄い嘲りが浮かぶ。

「桐生社長は有能なんでしょう? ご自分のお子さんが口にしたことくらい、お忘れにはならないはずですけど」

「お前は、そんなことで子ども相手に意地を張ってるのか?」

桐生朔弥は本気で信じられない、といった顔をした。

「母親を替えるだの、離婚届だの……あんなもの、子どもの戯れ言に決まってるだろう。まさか本気にしたのか」

でも、それは颯馬の本音だ。

口先だけの冗談なんかじゃない。

谷口凛華は目の奥に滲む悲しみを押し隠し、はっきりと言った。

「ええ。本気にするわ」

その返答に、桐生朔弥の瞳がかすかに揺れる。

馬鹿げている。

そう思う一方で、胸のどこかが妙にざわついた。

何かが、じわじわと手の中からこぼれ落ちていく。そんな得体の知れない感覚。

彼は眉をひそめる。

「いい加減にしろ。今日の件は不問にしてやる。だがその代わり、病院へ行って日奈に謝れ」

「彼女に謝ることはないわ」

谷口凛華は即座に言い切った。

「谷口凛華、お前も少しは分別を持て」

桐生朔弥の声がひときわ低く沈む。

「これは相談じゃない。命令だ。まだ聞き分けがないなら、桐生夫人の座を別の人間に替えてもいいんだぞ」

「替えればいいでしょう」

もう、その言葉で心が揺れることはなかった。

むしろ胸の奥に広がったのは、かすかな解放感だった。

そもそもこの結婚は、ほんの些細な行き違いから始まったものだ。

五年のあいだ、彼女に向けられてきた噂は尽きなかった。腹に一物ある女。名家に取り入った女。そんな言葉ばかり。

谷口凛華は何度も証明しようとした。

自分がそういう女ではないことを。妻として、母として、この家をちゃんと守れることを。

けれど結果は――見るまでもない。

なら、もういい。

「谷口凛華、後悔するなよ」

桐生朔弥の声は、氷の刃みたいに冷え切っていた。

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