第5章

会議室。

錚々たる面々を前に、谷口凛華は一言一言を噛みしめるように質問を重ねた。

その様子を見ていた岡野明裕が、わずかに眉を寄せて口を開く。

「皆さん、改めて紹介します。後輩の谷口凛華です。数年前に話題になったAIの新アルゴリズム、覚えてますよね。――あれ、俺の後輩が取った特許です」

その瞬間、視線が一斉に凛華へ集まった。

あのアルゴリズムは、いまなお現場で使われ続けている。開発者は在学中の学生だとしか聞いていなかった。目の前の本人と結びついた途端、驚きが顔に出るのも無理はない。

以降の議論では、空気が変わった。

投げられる言葉の端々に、敬意が混じる。

凛華はそれを肌で感じながら、失いかけていた自信を少しずつ取り戻していった。

数時間後、ミーティングは終了。

岡野明裕が手を差し出す。

「今回のプロジェクトは人材が揃ってる。君と一緒にやれるのは嬉しいよ」

「私もです。ありがとうございます、先輩」

会ってからずっと、彼が自分の盾になってくれていたのは分かっている。

その借りは、胸に刻んだ。

テックパークを出ると、凛華はそのまま商業施設へ向かった。

この数年、転々と出張を繰り返してきたせいで、服は驚くほど少ない。しかも手元に残っているのは、ほとんどが仕事用の堅いものばかり。

服を替えるだけで、気分も変わる。

そう思って入口に差しかかった、そのとき。

すっと腕が伸び、視界に買い物袋が突き出された。

「あなたって本当に仕事ばっかり。買い物する時間があるなら、子どもの面倒を見なさいよ。だから颯馬もあなたが嫌いなの。自分で産んだ子にまで嫌われて。ほら、持って。これから颯馬に――」

谷口凛華の額に、露骨に青筋が浮かぶ。

差し出された袋を見ても、手は動かさない。

「何ぼーっとしてるの。礼儀がなってないわね。私はあなたのお義母さんよ。年上は敬いなさ――」

義母の杉浦美華が、傲慢に袋を放り投げた。

受け取らない。

どさり、と床に落ちる。

「拾いなさい」

杉浦美華がぎろりと睨みつけ、当然のように命じたあと、ヒールを鳴らして先へ進む。

数歩行って振り返り、凛華が動かないと分かると、顔色がさらに険しくなった。

凛華は取り合わず、踵を返す。

杉浦美華が一瞬呆け、それから冷えた声で怒鳴る。

「どこ行くの? 拾いなさい!」

いつも通りの命令口調。

凛華は足を止め、冷ややかに見返した。

「もう二度と、あなたの買い物袋なんて持ちません。自分のことは自分でやってください」

「……なんですって? もう一回言いなさい」

「耳鼻科に行かれることをおすすめします」

杉浦美華の鉄青の顔を一瞥し、凛華は店内へ入った。

杉浦美華は床の荷物も放ったまま、胸を上下させる。

「いい気になって……! 私の息子に嫁げたのは運が良かっただけよ。今すぐ叩き出して、一文無しにしてやってもいいんだからね!」

「ご自由に」

うるさくて、落ち着いて買い物もできない。

凛華は早足で商業施設を後にした。

……

桐生家。

リビングでは、桐生颯馬がソファに丸まり、アニメを見ながらスナック菓子を頬張っていた。ここ数日で、幼い頬が明らかにふっくらしている。

仕事のメールを返していた桐生朔弥が顔を上げ、その姿に眉をひそめた。注意しようとした矢先、玄関が勢いよく開く。

買い物袋を提げた杉浦美華が、怒気をまとって入ってきた。

「あなたが選んだお嫁さん、ほんっとに躾がなってないわ。商業施設で私を見かけたのに、無視してどこかへ行ったのよ? 家のこともしない、子どもも見ない。あんな女、何の役にも立たない」

「そもそも家に入れたのが間違い。離婚よ、今すぐ離婚。財産も何も持たせず追い出しなさい」

谷口凛華が? そんなことをする度胸があるのか。

そう思いながらも、朔弥の目がわずかに陰る。

半月。

今回は拗ね方が長い。――まだ戻っていない。

「聞いてるの? 今すぐ離婚よ。妻の役目も母親の役目も果たせない女なんて要らないでしょう」

「可哀想な私の可愛い孫。あんな母親で、恥ずかしいったら……」

文句は止まらない。

朔弥の胸に、理由の分からない苛立ちが積もる。

「……もういい。少し黙ってくれ」

低く言ってから、続けた。

「あなたが何と言おうと、彼女は俺の妻だ。颯馬の実の母親でもある。子どもに聞かせる話じゃない」

大人同士の問題に、子どもを巻き込みたくない。

不幸な家庭の空気を、息子に吸わせたくなかった。

「はあ? 親に口答えするの?」

杉浦美華が噛みつくように言う。

朔弥はそれ以上返さない。

颯馬が余計なものを聞いて傷つく前にと、息子の手を取り二階へ上がった。

ひとりリビングに残された杉浦美華は、腹立ちまぎれに買い物袋を床へ投げる。

「まったく……どいつもこいつも、礼儀知らず」

ふと、テーブルの上の箱に気づく。眉を吊り上げた。

「何よ、それ」

通りかかった使用人が答える。

「若奥様が若様にご用意された贈り物でございますが……」

贈り物。

その言葉だけで、杉浦美華は面倒くさそうに手を払った。

使用人が去り、周囲に誰もいなくなるのを待って、苛立ったまま箱を開ける。

「うちの金で暮らしてるくせに、たいした物なんて買えるわけ――」

ぶつぶつ言いながら蓋を持ち上げ、瞬間、目が見開かれた。

離婚協議書。

「……っ!」

興奮したようにそれを掴み、ばさばさと確認する。内容を読んだ杉浦美華は、笑いがこみ上げそうになった。

離婚したい?

結構じゃない。最高。

息子が自由になったら、すぐに家柄の釣り合うところから嫁を迎えればいい。

廊下から足音が聞こえ、杉浦美華は慌てて離婚協議書を買い物袋へ突っ込み、何食わぬ顔でその場を離れた。

……

書斎。

桐生朔弥は、谷口凛華への発信履歴を見つめたまま、指先を止めていた。

胸の奥に、苛立ちがくすぶる。

自分の手の内にない状況が、ひどく嫌いだ。

着信音が鳴る。

桐生颯馬がぱっと笑顔になり、受話器に顔を寄せた。

「日奈さん、なにしてるの? ぼく、すっごく会いたい!」

「私も会いたいよ。いま何してる? 一緒にごはん行かない?」

谷口日奈のやわらかな声が、がらんとした書斎に落ちる。

颯馬は嬉しさのあまり、ぴょんと跳ねそうになった。

「もちろん――」

言いかけて、朔弥を見上げる。

水を含んだような瞳に、あざといほどの「お願い」が浮かぶ。拒める大人は少ない。

朔弥は淡く「……ああ」とだけ返した。

「時間と場所を決めろ。俺が連れていく」

颯馬は手をぱたぱたさせる。

「聞いた? パパ、いいって! どこ行く?」

通話が切れる。

颯馬は勢いよく朔弥に抱きついた。つやつやした頬いっぱいに笑み。

「日奈さん、いちばん! ぼくがポテト好きなの知ってて、プレゼントもくれるんだって!」

子どもの幸福は単純だ。

ポテトひとつで、花が咲いたみたいに笑う。

朔弥は息子の髪を軽く撫でた。

「嬉しいならそれでいい。支度しろ。すぐ出る」

「やった! 学校で描いた絵も持ってく! すっごい時間かけたんだ!」

父子は着替えを済ませ、家を出た。

その頃――通話を終えた谷口日奈は、口元をゆるめる。

谷口凛華はまだ家出したまま?

このままずっと戻らなければいい。

ここ最近、朔弥と颯馬を頻繁に誘っている。

慣れは恐ろしい。彼女は二人に、自分がいる日常を刷り込むつもりだった。

失ったものは、必ず取り返す。

奪った女には、奪い返される痛みを教えてやる。

日奈は眉を上げる。

瞳の奥には、逃がさないという熱が宿っていた。

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