第2章

その日の午後、私は辞表を提出した。

課長は封筒を見て眉間に皺を寄せ、必死に引き留めようとした。

「中川君、待遇面に不満があるのか? 遠慮なく言ってくれ、相談に乗るよ」

彼は声を潜めて机を叩いた。

「知ってるだろう、佐藤主任は来年異動だ。この部署で君が一番の後任候補なんだぞ。今ここで諦めるのはもったいない」

私は礼儀正しい微笑みを崩さず、静かに首を横に振った。

「大変お世話になりました。ですが、実家の店を手伝いたいので」

もちろん本心ではない。私はもともとバリキャリ志向でもなければ、出世欲があるわけでもない。ただ平穏無事に暮らせればそれでよかった。

必死になって東京にしがみついていたのは、すべて椎名湊のためだった。

彼が家業を継ぐために東京へ戻ると言ったから、私も迷わずその後を追ったのだ。

そばにいれば、長い時間を共有すれば、いつか彼が振り向いてくれると無邪気に信じていた。

けれど現実は残酷だった。感情というものだけは、どれだけ努力しても報われないことがあるのだと教えられた。

オフィスビルを出ると、渋谷のスクランブル交差点の大型ビジョンはいつものように喧騒を撒き散らしていた。

レコード店の前を通りかかると、スピーカーから流行りのバンドのバラードが流れてきた。

ボーカルのハスキーな声が、雑踏を切り裂いて響く。

「いつの間にか臆病者になっていた 優しさという名の糸の下で

君の操り人形を演じ続け 一年また一年 気づけばこんなに惨めな姿

一方的な妥協なのに 永遠を夢見ていた

繰り返されるこの台本 演じるのはもう疲れたんだ……」

私は足を止め、人波の中でしばらくその歌を聴いていた。

初めて椎名湊に出会ったのは、私もまだ十七歳だった頃。

月日は流れ、気がつけば私も二十八歳。三十という節目が近づいている。

椎名湊のために、私は十二年もの間、自分を牢獄に閉じ込めていた。

この長く滑稽な一人芝居も、そろそろ幕を下ろすべき時だ。

その夜、決心がついたせいか、夢は私を十七歳の夏へと連れ戻した。

椎名湊が転校してきた日の朝、私は遅刻しそうで近道を抜け、学校の裏門で彼に出くわした。

黒塗りの高級車の横で、上品だがやつれた女性が彼に掴みかかって叫んでいた。

「どうして私にこんな仕打ちをするの? こんな田舎まで私を追い詰めて!」

椎名湊はその手を振り払い、氷のような声で言った。

「ついてくるって選んだのはあんただろ。俺が強制したわけじゃない」

女性は顔を覆って泣き崩れた。彼は無表情で振り返り、木の陰に隠れていた私と目が合った。

その眼差しは、ぞっとするほど陰鬱で鋭かった。

「見世物じゃないぞ」

私は恐怖を感じた。

けれど何かに憑かれたように逃げ出さず、しどろもどろに尋ねた。

「あの……転校生、だよね? 案内しようか?」

彼は警戒心を露わにして私を睨み、あら探しをしているようだった。

けれど私の目には何もなかった。

結局彼は何も言わず、無言で私の後ろをついてきた。

一ヶ月もすると、彼に関する噂は小さな町中に広まった。

東京の財閥の隠し子だとか、母親の精神に異常があるとか。

母親の療養のために、この海辺の別荘に追いやられたのだという話だった。

周囲の彼を見る目は変わった。憧れの中に好奇心が混じり、さらには上から目線の憐れみさえ含まれるようになった。

あれは梅雨の夜、激しい雨が降っていた。

私は学校の裏山にある神社の石段で、ずぶ濡れになった椎名湊を見つけた。

彼は捨てられた人形のように、手首に巻かれた包帯からは血が滲み、触れれば壊れてしまいそうなほど脆く見えた。

私は迷った末に歩み寄り、自分の上着を脱いで彼にかけた。

「椎名君、風邪ひいちゃうよ」

彼は猛然と顔を上げ、手負いの獣のような目で私を威嚇した。

「失せろ! 俺の母親が狂ってるって知ってるんだろ?」

私はしゃがみ込み、彼の目線に合わせて言った。

「病気は彼女のせいじゃないし、あなたのせいでもないよ。それに思うんだけど……お母さんはきっと、あなたを愛しすぎているから、あんなに苦しんでいるんじゃないかな」

雨音がうるさい中、椎名湊は私をじっと見つめた。

いつも氷が張っていたその瞳が、初めて溶け出したように見えた。

それ以来、私たちの関係は変わった。

彼は自分から話しかけてくるようになった。たとえそれが宿題を借りるためだけであっても。

放課後の帰り道、無言のままでも彼はあの長い海岸線を一緒に歩いてくれた。私のとりとめのないお喋りに耳を傾けてくれた。

いつしか私は、神南湾における彼の唯一の友人になっていた。

高三の進路希望調査の前日、椎名湊が突然聞いてきた。

「結衣、海外留学とか興味あるか?」

私がきょとんとしていると、彼は下を向いて耳を赤くしていた。

「母親が卒業後にアメリカへ行けってうるさくてさ。お前……一緒に来ないか?」

私は苦笑して手を振った。

「椎名君、うちはただの定食屋だよ。留学費用なんてどこにあるの」

「じゃあ、どこに行くつもりなんだ?」

「横浜かな。神奈川県だし、国立だから学費も安いし。寂しくなったら電車で一時間で帰ってこられるから」

椎名湊は私のマフラーを引っ張り、顔半分を隠すようにしてそれ以上何も言わなかった。

その後、先生が進路調査票を集める時、彼もてっきりアメリカの大学を書いたのだと思っていた。

盗み見ると、そこには私と同じ横浜の大学名が書かれていた。

私は驚いて目を見開いた。

「椎名君、アメリカ行くんじゃなかったの?」

彼は机に突っ伏したまま、くぐもった声で言った。

「急にアメリカがつまらなく思えてきたんだ。神奈川も悪くないかなって」

しかし、願書提出の三日前、椎名湊はその調査票を自らの手で破り捨てた。

理由を聞いても、彼は口を閉ざしたままだった。

その夜になってようやく知った。東京の椎名家で激変が起きたのだ。

父親が指名していた後継者が事故死し、一族は大混乱に陥っていた。

父親は母親に、すぐに湊を連れて東京へ戻るよう命じた。戻れば母親を正妻として認め、湊の跡継ぎとしての地位を保証すると約束して。

その「正妻の地位」のために、母親は必死に彼に懇願した。戻らなければ一生このまま惨めな思いをすることになると泣いて訴えた。

真夏の蝉時雨がうるさくて気が狂いそうだった。木陰の下で、椎名湊は私を見ようともせず俯いていた。

「……ごめん、結衣。神奈川には行けなくなった」

泣いた後の嗄れた声。目尻は赤く腫れていた。

私は彼の悲痛な姿を見て、少し考えてから背伸びをし、彼のおでこを軽く小突いた。

「いいよ、別に」

私は大きく息を吸い込み、笑顔で彼に告げた。

「じゃあ今回は、私が一緒に東京へ行ってあげる」

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