第1章
最後の段ボール箱をリビングの床に下ろし、額の汗を拭う。梅田谷に来て三日。ようやく、ここなら本当にうまくやっていけるかもしれない、と感じ始めていた。羅原の部屋と比べるとずいぶん狭いけど、家賃は文字通り半額だ。それに、寝室の窓から見える山の景色は、間違いなくキラーコンテンツになる。
スマホがインスタグラムの通知で震えた。フォロワーたちはもう新しい場所からの投稿はいつかと聞いてきている。【もうすぐね】と私は返信していた。まずはいいスポットを見つけないと。
ノートパソコンを開き、近所のジムを調べ始める。チェーン店はどこも退屈で無機質な感じ。そんな中、興味を引くものを見つけた。
佐藤ファミリーフィットネス。レビューは軒並み星五つなのに、不思議なことに写真はほとんどない。数枚の写真は基本的な器具と、民家のような建物が写っているだけ。あるレビューが目に留まった。【今までで最高のトレーニング。タケアキさんは限界まで追い込んでくるけど、後で絶対に感謝することになる】別のレビューにはこうあった。【美奈子さんの細部へのこだわりは信じられないくらい。死ぬ気でやらないとフォームを完璧に直してもらえないわ】
死ぬ気で? 大げさだな。でも、このレビューに込められた情熱こそ、私が求めていたものだ。本物で、家族経営で、確かな結果が出る。
スマホがピンと鳴って、通知が表示された。インスタグラムだ。
@佐藤涼_トレーナー【真優さん、こんにちは! 梅田谷に引っ越して来られたのを見ました。うちの家族経営のジムで、ぜひコラボしませんか】
スマホを落としそうになった。どうして私がここにいるって、もう知ってるの?
彼のプロフィールをクリックして、息を呑んだ。この人、イケメンすぎる。本気で。
ダークブラウンの髪に、カメラ越しにこちらを見透かすような緑色の瞳。そして、フィットネス雑誌から抜け出してきたような身体。プロフィールはシンプルだった。【NASM認定トレーナー|佐藤ファミリーフィットネス|あなたが最強の自分になる手助けをします】
投稿はすべてプロのトレーニングコンテンツ。上半身裸のセルフィーも、サースト・トラップもない。純粋なフィットネスの知識と、クライアントの変化だけ。腹筋のことしか頭にない羅原のフィットネスインフルエンサーたちと関わってきた後だと、すごく新鮮に感じた。
でも、何かが引っかかる。完璧すぎる。ルックスが良すぎる。私の経験上、こういう見た目の男はたいてい自覚があるものだ。
考えすぎよ、真優。これこそ、私がここへ引っ越してきた目的のチャンスじゃない。
私は返信を打ち込んだ。【こんにちは! ご連絡ありがとうございます。ぜひジムを見学させていただきたいです。いつがご都合よろしいですか?】
返事はすぐに来た。【明日の午後はいかがでしょう? 3時とか。ジムを案内しますし、提携の可能性についてもお話しできます】
完璧です。住所を送っていただけますか?
送られてきた場所は、文字通り隣だった。私のアパートのすぐ隣。どうして今までジムがあるなんて気づかなかったんだろう? グーグルマップを立ち上げる。衛星写真には、大きな裏庭のある普通の家が写っているだけだった。
よし、ちょっと変だ。でも、自宅を改装したのかもしれない。家族経営ってそういうものだし。それに、コンテンツを撮影するにはすごく便利だろう。
私は会う約束を確定させ、その夜の残りは荷解きと明日の服装選びに費やした。可愛くて、でもスポーティー。プロフェッショナルだけど、親しみやすい感じ。
午後十一時になる頃には、ようやくベッドに入る準備ができた。引っ越して以来、純粋なアドレナリンだけで動いてきたから、どっと疲れが押し寄せてきた。歯を磨き、パジャマに着替え、布団に潜り込む。
その時だった。あの音が聞こえたのは。
「この役立たず! 腕立て二十回だ!」
私は飛び起きた。声は大きく、怒りに満ちていて、隣の家から聞こえてくる。佐藤家だ。
「痛みを乗り越えろ! 容赦するな!」
心臓が早鐘を打ち始める。一体、あそこで何が起こっているの?
すると、別の声が響いた。女性の声だが、同じくらい激しい。「止まるな! 燃え尽きるのを感じろ! 完璧なフォームで! もっと深く!」
スマホを掴んで時間を確認する。午後十一時七分。誰がこんなに遅くにトレーニングするの? そして、どうしてこんなに……暴力的に聞こえるの?
声はさらに数分続き、やがて静かになった。私がようやくリラックスし始めた時、新たな音が始まった。
ドンッ。ドンッ。ドンッ。
何かを殴る音。誰かが何かを、あるいは誰かを殴っているような。
そして最悪の部分が訪れた。男の苦痛に満ちたうめき声、それに続いて、本物の苦悶としか思えない音が聞こえた。
「反撃しろ! もっと強く殴ってこい!」
なんてこと。
ベッドの上で凍りついたまま、誰かが殴られているとしか思えない音を聞いていた。うめき声はどんどんひどくなる。もっと必死に。もっと痛々しく。
これって、ファイトクラブか何か? 地下ボクシング?
頭が混乱し始める。あの完璧で、話がうますぎる涼は、私が引っ越してきてすぐにメッセージを送ってきた。彼は私がどこに住んでいるか正確に知っていた。そして明日、彼の「ファミリージム」に来てほしいと言っている。それはどうやら、真夜中に人が殴られているただの家のことらしい。
音はさらに二十分続いた。殴る音、うめき声、叫び声。時には複数の声が一度に聞こえることもあった。
これは絶対に普通のトレーニングの音じゃない。
110番に電話しようとスマホを握りしめた。でも、ためらった。なんて言えばいい? 「こんにちは、お隣さんがうるさいんです」? 実際に何が起きているかを見たわけじゃない。もしかしたら、彼らはただすごく熱心な夜型人間なのかもしれない。
でも、あのうめき声はとてもリアルだった。とても痛そうだった。
スマホが通知で光った。
@佐藤涼_トレーナー【順調に落ち着いているといいですね。明日、うちの場所をお見せするのが待ちきれません。良い夢を😊】
私はメッセージを凝視した。このタイミングは、今となっては不吉に感じる。隣で何かが起こっている真っ最中に、彼はこれを送ってきたのだ。
良い夢を。これって、何かの脅し?
私はメッセージをスクリーンショットし、彼のプロフィールをもう一度スクロールして、見逃していた危険信号を探した。でも、すべてがまだ普通に見える。プロフェッショナルで、クリーンだ。
隣からの音は、真夜中頃にようやく止んだ。私はその後一時間、小さな物音にいちいち飛びつきながら、目を覚ましていた。
もしかしたら、考えすぎなのかもしれない。彼らは本当に、ちょっと問題のあるメソッドを使う夜のトレーナーなだけかもしれない。真剣なアスリートの多くは遅い時間にトレーニングする。それに、あのレビューにも激しいコーチングのことは書いてあった。
でも、私の直感が、これは型破りなトレーニング方法以上の何かだと告げていた。
羅原にいる親友とのテキストのやりとりを開く。
私【ねえ、私のイケメンな隣人、地下ファイトクラブをやってるかもしれないんだけど】
咲紀【wwwwww、何それ? まだ三日しか経ってないのに、もうドラマ見つけてるの?】
私【本気だって。隣で人が殴られてるの聞いたんだから。で、明日、そこの『ジム』を見学することになってるの】
咲紀【真優…。普通の人みたいに、実録犯罪ポッドキャストでも聴いてたら? 自分でその中に入っていくんじゃなくてさ】
彼女の言う通りかもしれない。私には想像力を暴走させる癖があった。クリエイティブな仕事の性だ。
でも、あの音は本物だった。そして、涼からの完璧なタイミングのメッセージは、偶然にしては出来すぎているように感じた。
スマホを置き、目を閉じようと試みる。明日になれば、佐藤ファミリーフィットネスが本当は何なのかわかるだろう。
願わくは、その物語を語るために、私がまだ生きていますように。
