第3章 水野菜々美を押し倒す
夏目霧子の心臓が、一拍だけ飛んだ。次の瞬間、冷ややかな笑いが漏れる。
「黒崎さん、自信過剰じゃない?」
洗面台の横へ歩き、冷たい水をすくって顔にばしゃりと浴びる。あの一瞬の動揺を隠すために。顔を上げると、鏡の中の自分は嘲るように口元を歪めていた。
「毎回、行為の後は薬を飲んでいる。子どもなんて、できるわけないでしょ」
黒崎逸臣は眉間に深い皺を刻み、彼女の背中を睨みつける。
その投げやりな態度が気に入らない。とりわけ「薬」という言葉を、まるで当然のことのように口にする、その言い方が。理由の分からない苛立ちが、胸の奥を刺した。
「霧子……ああいう薬、飲みすぎは身体に――」
言い終える前に、黒崎逸臣のポケットのスマホがぶるっと震えた。
通話が繋がった瞬間、水野菜々美の泣き声がトイレいっぱいに響き渡る。夏目霧子にも、嫌になるほどはっきり聞こえた。
「逸臣……もう生きていたくない。住宅街の人たちがみんな、私のこと浮気相手だって……」
黒崎逸臣の手の甲に青筋が浮く。視線が刃物みたいに、夏目霧子の頬を削った。
「菜々美、どこにいる。バカなことするな。今すぐ行く」
電話を切った瞬間、黒崎逸臣は説明の余地すら与えず、夏目霧子の手首を掴んで引きずった。
「お前のせいだ! 今夜、菜々美に何かあったら――お前、絶対に許さない!」
よろけて膝の傷が疼く。痛いとは言わない。可笑しかった。
「愛人をなだめに行くのに、私まで連れてくわけ? 盛り上げ役にでもするの?」
「謝りに行く」
黒崎逸臣は車に押し込み、乱暴にシートへ突っ込んだ。手首が砕けそうな力で。
「菜々美に言え。全部お前の仕業だって。お前が人を使って汚名を着せたんだってな!」
「いいよ。じゃあ行こう」
夏目霧子はシートベルトを締め、窓の外へ視線を流した。水野菜々美が本当に自殺する気があるのか、見物だ。
車は狂ったように飛ばし、赤信号を二回も無視して、水野菜々美のマンションの下で急停止した。
黒崎逸臣はエレベーターが止まるのも待てないほど飛び出していく。焦りきった背中。その必死さが、夏目霧子の胸の奥をまた鈍く痛ませた。
視線を逸らし、口元を嘲るように歪める。
――水野菜々美のことだけは、こんなに必死なんだ。
部屋のドアは半開きだった。
中へ入った瞬間、薄いシルクのネグリジェ姿の水野菜々美が、果物ナイフを手首に当てて泣いていた。涙に濡れた顔が、妙に艶めいて見える。
「逸臣、どうして来たの……? 近づかないで。もう終わりにする……!」
「菜々美!」
黒崎逸臣の瞳が縮む。駆け寄ってナイフを奪い床へ投げ、震える体を抱きしめる。
「怖がるな。俺が来た。誰にもいじめさせない」
水野菜々美はそのまま胸に寄りかかり、涙目で黒崎逸臣の肩越しに玄関の夏目霧子を見る。
「お姉ちゃん……? どうしてあなたまで。私の笑いものにしに来たの?」
黒崎逸臣はそこでようやく背後の存在を思い出し、振り向いて怒鳴った。
「まだ立ってるのか。菜々美に謝れ!」
夏目霧子は動かなかった。
視線がソファの向こうへ落ちる。そこに座っていたのは、手入れの行き届いた中年の女――上品な装いのまま、水野菜々美を痛ましげに見つめている。
水野美月。夏目霧子の実母。
夏目霧子はゆっくり歩き、黒崎逸臣を完全に無視して、その貴婦人へ言った。
「……母さん。真夜中に妹が舞台を作って芝居してるの、止めもしないの?」
「母さん」
その一言で、部屋の空気が凍りついた。
黒崎逸臣の手が、水野菜々美の背を撫でる途中でぴたりと止まる。驚愕の目で夏目霧子と水野美月を見比べた。
水野美月は顔を引きつらせる。
「霧子、何を言ってるの。妹をここまで追い詰めて、満足なの?」
黒崎逸臣がようやく理解し、震える声で水野菜々美を見る。
「菜々美……君は……」
水野菜々美は唇を噛み、涙を大粒で落とした。
「逸臣、ごめんなさい……言えなかったの。夏目霧子は私の、母が同じお姉ちゃんなの。あなたが知ったら困ると思って……だってお姉ちゃん、ずっと私のこと嫌いで……」
その健気ぶった声に、夏目霧子は笑いそうになった。
――先に悪者にする。いつもの手口。
「嫌いだよ」
夏目霧子は容赦しない。
「子どもの頃から、私のものは何でも奪う。ぬいぐるみも、部屋も、賞状も。大人になったら、次は男ってこと?」
水野美月が不機嫌に言う。
「その言い方は何? 菜々美は純粋で優しい子よ。奪うなんてするわけない。あなたが子どもの頃からだらしなかっただけ」
「今さら妹に汚名を着せて……窓ガラスを割らせたのも、いつからそんなに意地悪になったの!」
夏目霧子は、知っているはずなのに知らない顔を見つめた。胸の奥の温かいものが、少しずつ崩れていく。
――これが、母。
青も赤も見ず、いつも菜々美の側に立つ。
黒崎逸臣の目が冷える。
「母さんまでそう言うなら、まだ何か言い訳するのか。菜々美がこんなに苦しんでるのは、お前のせいだ」
その庇い方に、胃がきりきりとひっくり返る。強い吐き気がこみ上げた。
夏目霧子は口を押さえ、えづく。
だが黒崎逸臣には、演技にしか見えない。
「霧子、何のつもりだ」
彼は菜々美を庇い、眉をきつく寄せた。
「さっきもそうだ。平然と吐けば同情が買えるとでも? 自分がやった汚いことを誤魔化せるとでも思ってるのか」
夏目霧子は吐き気を押し殺し、体を起こした。顔色は真っ白だ。
「逸臣、信じるなら信じれば。私は帰る。あなたたち『家族』の団欒の邪魔はしたくない」
一秒もここにいたくない。空気が気持ち悪い。
「待て! 謝ってから帰れ!」
黒崎逸臣が立ち上がり、怒鳴った。
夏目霧子は聞こえないふりをしてドアノブへ手を伸ばす。
その瞬間、水野菜々美が黒崎逸臣の腕から抜け出し、裸足で駆け寄って夏目霧子の腕を掴んだ。
「お姉ちゃん、行かないで! 私が悪かった、謝るから……誤解しないで……」
反射的に夏目霧子は腕を振って振りほどこうとする。
「放して!」
その途端、水野菜々美は紙みたいに大げさに後ろへ倒れ、飾り棚に激突して悲鳴を上げ、床に座り込んだ。
「菜々美!」
黒崎逸臣と水野美月が同時に叫び、駆け寄る。
夏目霧子は固まった。
菜々美が掴んだとき、隠すように力を入れて引っ張ってきた。転びかけた夏目霧子は、腹の子を守ろうとして、とっさに腕を金属の角に擦ってしまった。
腕に長い血の筋が走り、血がぽたぽたと溢れて床に落ちる。
刺すように痛い。
――それなのに、誰も見ていない。
二人の視線は全部、水野菜々美に釘づけだった。
