第4章 家族の集まり
少し離れたところで、黒崎逸臣は水野菜々美を抱き、低い声であやしていた。彼女の母親もまた、周りをうろついては痛ましげに眉を寄せる。
夏目霧子には、その光景がやけに眩しく刺さった。腕の傷の痛みすら、遠のいていく。
説明も、言い争いも――今さら必要ない。
霧子はふっと笑った。羽毛みたいに軽い声で。
三人を振り返りもしないままドアを開け、まっすぐ外へ出る。
「霧子! 止まれ!」
背後で黒崎逸臣の怒声が飛んだ。
霧子は足を止めない。後ろ手で扉を閉め、あの眩しい光景を遮断する。
廊下の風は冷たかった。けれど、胸の奥の冷えのほうがずっと深い。
彼女は適当に車を捕まえ、そのまま病院へ向かった。
傷は三針。
――
翌日の夕方、夏目霧子はまた黒崎家の本邸で夕食を取った。
長袖のシャツ。袖口はきっちり留め、包帯が見えないように。
「霧子、こっちへ来い。じいさんが特製の薬膳粥を作らせた。身体にいいぞ」
黒崎昌仁は慈しむように笑って、席へ引き寄せようと手を伸ばした。
その手が、右腕の傷に当たる。
「っ……」
霧子は思わず息を呑み、顔色がすっと抜けて腕を引いた。
黒崎昌仁の表情が変わる。手際よく袖をまくった。
白いガーゼに、じわりと赤が滲んでいる。嫌でも目につくほど。
「……どういうことだ」
笑みが消え、杖が床にどん、と重く鳴った。食卓の空気が一瞬で凍りつく。
黒崎昌仁は黒崎逸臣を指差し、怒鳴りつけた。
「このろくでなし! これが嫁の面倒を見た結果か! 目も耳も腐ったのか、こんな傷が見えんのか!」
逸臣の視線が霧子の腕へ落ち、瞳がわずかに揺れる。
彼は菜々美のことばかり見ていた。霧子がいつ傷を負ったのか――気づきもしなかったのだ。
「私が不注意だっただけです」
霧子は袖を下ろし、傷を覆う。
「昨日の夜、果物を切ってて滑りました。彼は関係ありません」
昌仁は痛々しそうに顔をしかめ、すぐにキッチンへ貧血に効くスープを追加で作らせた。
霧子の皿へ料理を取り分けながら言う。
「もっと食え。痩せすぎだ。黒崎家は食い物に困らん。身体を養って、早くひ孫を何人か抱かせてくれ。そうすりゃこの老骨に悔いはない」
子どもの話に、逸臣の箸がぴたりと止まった。反射的に霧子を見る。
霧子は顔を上げ、感情のないまま言う。
「おじい様、ごめんなさい。私、子どもは産めません。身体に問題があるんです」
食卓が、しん、と静まり返った。
逸臣がはっと顔を上げ、霧子を凝視する。
昌仁の箸が落ちかけ、しばらく言葉が出ない。
「……何を言ってる。産めないとは、どういう……」
「言葉通りです」
霧子は平然と嘘をつく。
「医者に言われました。体質的に妊娠しにくい。もし妊娠しても、維持できないって」
切るなら、きれいに切る。
子どもという楔がなければ、昌仁も自分を逸臣に縛りつけない。
義姉の黒崎雅美が、鼻で笑った。
「なんだ、子ども産めない身体ってこと? じゃあ黒崎家に迎えて何になるの。飾り?」
「黙れ!」
昌仁が顔を真っ青にする。
「おじい様、間違ってないでしょ?」
雅美は勢いづく。
「跡継ぎが必要なの。産めないなら、産める人に席を譲ればいいのよ!」
「姉さん、もういい」
ずっと黙っていた逸臣が口を開いた。声は氷のように冷たい。
雅美がびくりとする。
「な、何よ。あんたのためで――このままだと子どもが――」
「これは俺と彼女の問題だ」
「姉さんは、自分のことをどうにかしろ」
その言葉が雅美の癇に障ったのだろう。ますます不機嫌になる。霧子を睨み、心の中で毒づいているのが分かる。弟に何を吹き込んだのか、と。
霧子は少し意外で、逸臣を見た。
――どういう風の吹き回し。
おじい様の前で「夫婦仲良し」を演じたいだけじゃないのか。
昨日は菜々美のために手首が折れるほど掴んで、今日は「妻思い」の仮面。
滑稽だ。
霧子は何も言わず、冷え切った白飯を口に運んだ。
そのとき。
骨をきれいに取った魚の身が、彼女の茶碗に置かれた。
霧子が目を瞬く。
逸臣は俯いたまま、箸で丁寧に小骨を抜いている。
ハタの蒸し物。霧子の好物。
魚は好きだが、骨を取るのが面倒で――昔は魚が出るたび、逸臣がこうして骨を取ってくれた。筋肉の記憶みたいに、身体が勝手に動くのだろう。
「……食え」
逸臣は彼女を見ない。もう一切れ、また小骨を一本ずつ抜く。
茶碗の上に魚が小山みたいに積まれていくのを見て、霧子の心はぐちゃぐちゃになった。
昔なら、泣くほど嬉しかった。
でも今は――
濃い生臭さが鼻を突いた。
胃の底がひっくり返る。今までで一番強い吐き気が、波のように押し寄せた。
「……っ」
こらえきれず、霧子はえづいて口を押さえ、顔色を失ったままトイレへ駆け込む。
さっき口にしたものを、全部吐き出した。
洗面台の前。
鏡の中の自分は紙みたいに白い。出るのが嫌だった。出れば説明しなければならない。
透けるようなまぶたの下に、青い血管がうっすら浮き、ひどく脆そうに見える。
食堂では、逸臣の箸が止まったままだった。
「産めない」と言った直後に、魚の匂いで吐く――出来すぎている。
雅美が疑いの目を向け、唇を歪める。
「……何よこれ。まさか、できたんじゃない? さっきは『子ども産めない身体』みたいなこと言ってたくせに」
逸臣が食器を机に置く音がした。
「その話は終わりだ」
しばらくして、霧子が戻ってくる。
目尻が赤く、涙がにじんでいる。乾えずきで出た、生理的な涙だ。
椅子に座り、頭を下げた。
「ごめんなさい、おじい様。昨日、変なものを食べたみたいで……今も気持ち悪いです」
そう言って、魚の身を手つかずのまま逸臣へ戻す。
「気持ちは嬉しいけど、いりません」
逸臣の目が鋭くなる。
「霧子、病院へ行くぞ」
昌仁も心配そうに頷く。
「そうだ、診てもらえ。ひょっとしたら……な」
