第5章 間違った人が私を救った
ナタリー視点
重たいまぶたをこじ開けると、体が水の底に沈んだみたいに鉛のようだった。
視界に入ったのは、白く色の抜けた天井。
次の瞬間、すぐ傍で低く艶のある声が落ちた。
「動くな」
ゆっくり首を回す。ベッド脇の椅子に、エルヴィンが座っていた。
「交通事故だ。検査は終わってる。擦過傷がいくつかと、脳震盪」
淡々としていて、妙に客観的。だからこそ現実味があった。
「……あなたが、助けたの?」
掠れた声が自分のものとは思えない。
エルヴィンが眉を持ち上げる。
「俺じゃなきゃ誰だ。脳震盪で本当に脳までやられたか?」
相変わらず整った顔。けれど、きっちり着込んだスーツの裾は泥だらけだった。私を引き上げたせいだ。
――噂では、エルヴィンは自分のもの以外に触れない。
なのに彼は、みっともない私を受け止めた。しかも一度きりじゃない。
口元に薄い笑みが浮かぶ。けれど、それはすぐに消えた。
助けが必要なとき、私を救いに来たのは夫じゃない。今日初めて会ったこの男だ。
「知ってるか」
エルヴィンが、興味なさそうに言った。
「お前、毒を盛られてる。それで事故った。今は――誰がシャンパンを飲ませたのか、考えたほうがいい」
考えが追いつく前に、廊下から足音が近づいてきた。速い。苛立ちを踏み鳴らすみたいな音。
ドアが乱暴に押し開けられる。
レヴィが飛び込んできた。
いつも完璧に整っているはずの彼が、今日は乱れて見えた。顔には怒りが貼りつき、その奥に――ほんのわずか、焦りにも似たものが滲んでいる。
「お前、何考えてる」
低く抑えた声。抑えているぶん、怒気が濃い。
「そんな状態で運転だと? 死ぬところだったんだぞ、ナタリー!」
「……どうして、ここが」
「病院から連絡が来た。俺はまだ、お前の緊急連絡先だ」
そう言い切ったあと、レヴィの視線が病床の横へ滑る。エルヴィンの姿を見た瞬間、空気が冷えた。
「……どうしてお前がここにいる」
エルヴィンがゆっくり立ち上がり、レヴィの目を真正面から受け止める。
「俺がいなかったら、お前の妻はあの事故で死んでた」
レヴィが奥歯を噛みしめる。
「そうか。なら俺が来た。もう帰れ」
エルヴィンは一度だけ私へ目を向けた。何かを確かめるみたいに、意味深く見つめてくる。
それから口角を上げた。
「もちろん」
エルヴィンが去ると、レヴィはベッドの脇に腰を下ろした。
「お前は俺の妻だ。助けるべき人間がいるなら――俺だ。あいつじゃない」
胃の奥がきりきりと痛んだ。
「助ける? 実際は、リリアンを家まで送るのに忙しかったくせに」
彼の表情が一瞬だけ揺れる。罪悪感か、怒りか。判別できないほど短い揺らぎ。
「母さんに言われた」
レヴィは私の手を強く握った。力が逃げ道を塞ぐみたいに。
「今すぐ家に連れて帰る。俺が看る。埋め合わせさせてくれ」
断りたい。今すぐ出ていけと吐き捨てたい。
けれど全身が軋み、頭が割れるように痛い。まだ、私は彼から完全には離れられない。
「……いいわ」
掠れた声で答える。
「好きにして」
レヴィは手際よく手続きを済ませた。私が弱々しく抗議しても聞かず、結局、彼が私を抱き上げて車へ運ぶ。妙に優しい動作が、逆に気持ち悪い。
帰り道、窓の外を眺めながら、エルヴィンの言葉だけが頭の中で反響していた。
――誰がシャンパンを飲ませたのか。
分かりきっている。リリアンは私を殺そうとした。
レヴィは何も知らない。
……本当に?
それから数日間、レヴィは数年前の、あの気遣いの塊みたいな夫に戻った。
毎日、自分で料理を作る。私が横になっていると、隣に座って仕事のメールを確認してくれる。
大事な会議をいくつも取りやめてまで、家に残った。
四日目。だいぶ楽になった私は、すぐレヴィに言った。
「もうほとんど大丈夫。来週には仕事に戻れそう」
レヴィの顔が一瞬だけ硬くなる。だがすぐ平静を貼り直した。
「焦るな、ナタリー」
ベッドの端に腰掛け、私の手を取る。
「……実は、ずっと考えてた。俺たちの未来を」
胃が冷たく縮む。
未来?
そんなもの、もう――。
「結婚して八年だ」
レヴィは続けた。
「俺は会社のことばかりだった。でも……子どもが欲しい。家族を増やしたい」
「タイミングが完璧じゃないのは分かってる」
目が妙に澄んでいて、言葉も真っすぐだ。
「でも、あの事故で思い知った。命は簡単に消える。だから――子どもを作ろう」
私は彼の顔を凝視した。計算の影を探すように。
けれど、彼は本気に見えた。
「嫌」
私はきっぱり言って、手を引いた。
「あなたの子どもは産まない」
「どうしてだ!」
傷ついたように声が跳ねる。
「俺たちは夫婦だろ。愛し合ってる――!」
首を横に振る。
「子どもで問題は解決しない。それは、私を縛る別の手段になるだけ」
レヴィの表情が引き締まった。
「そんなつもりじゃない。俺はただ、穏やかな未来が欲しいだけだ」
「穏やか?」
私は真正面から目を見返す。
「鎖が一本増えるだけ。ここから逃げられなくなる理由が、また一つ増えるだけ」
レヴィが立ち上がり、苛立ちまぎれに髪を掻いた。
「もう分からない。俺は未来を作ろうとしてるのに、お前はそれを顔に投げ返すのか。少しは考えろ!」
背を向けて出ていく。
ドアが――バン、と乱暴に閉まった。いつもよりずっと強い音。
ベッドの上で、手が止まらず震えた。
今度は、子どもで私を閉じ込めるつもりなのだ。
誰かに吐き出したくて、私は親友のグラントに電話をかけた。
呼び出し音は一度で切れる。
「ナタリー! ねえ、聞いたよ、事故! 大丈夫なの!?」
「大丈夫。擦り傷が少しあるだけ」
枕にもたれて、ようやく言葉にしようとしたのに、グラントが声を潜めて先に切り出した。
「ねえ、知ってる? レヴィがチャリティオークションでマーカスと殴り合いしたんだって。リリアンのことで!」
心がすうっと沈む。
「……何?」
「オークションでね、レヴィがマーカスのコレクションのジュエリーを競り落とそうとしたの。とんでもない値がつくやつ。でもマーカスが売らないって言って、それでリリアンに関する下品なことを口にして……レヴィがキレた。で、本当に取っ組み合い。今、みんなその話でもちきり!」
グラントの声は続いていたのに、耳に入ってこなかった。私は目を閉じる。
私の前では、レヴィは数日間ずっと優しい夫を演じていた。
でも現実では、相変わらずリリアンの名誉のために暴れている。
あの宝飾品も、きっと彼女への贈り物だ。
「それと……もう一つ」
グラントが言いよどむ。
「療養中に言うべきじゃないって分かってる。でも……あなた、知っておいたほうがいい」
胸の奥に、嫌な予感が濃くなる。
「何?」
「聞いたんだけど……レヴィ、あなたのプロジェクトマネージャーのポストをリリアンに渡したって」
