第9章 陰謀の契約書
リリアン視点
ナタリーが出ていくやいなや、私はまっすぐ上階へ向かい、レヴィを捜した。
あの頭のおかしい女。最低のアバズレ。ほんと、理解不能――!
ドアを勢いよく開けると、兄のマイルズまで来ていた。私の頬に残る赤い痕を見た途端、彼は顔色を変える。
「どうしたんだ、その顔は?」
私は二人の前へ駆け寄り、ぼろぼろと涙をこぼしながら、震える声を作った。
「ナタリーがオフィスに入ってきた瞬間、いきなり私に怒鳴り散らしたの……! 私のことをアバズレだとか、気持ち悪いとか……でも私、仕事の引き継ぎで聞かなきゃいけないことがあったから、黙って聞くしかなくて……!」
言いながら、頭の中では計算していた。
「それだけじゃないわ。書類を顔に投げつけてきて、私を床に突き飛ばして、それから何度も叩いたの……こんなふうになるまで! 死ねとまで言われたわ!」
もちろん嘘だ。実際より、ずっとひどく盛っている。
でも、それの何が悪いの?
どうせレヴィは私の味方をする。私は少し大げさに言っただけだ。
レヴィの表情はすっと冷え切った。それなのに、彼は何も言わない。
マイルズは怒りをあらわにし、レヴィへ向き直る。
「気でも狂ったのか? お前、どうするつもりだ」
ようやくレヴィが私に口を開いた。声音は驚くほど静かだった。
「リリアン。ナタリーの代わりに俺が謝る。あいつは最近、少し情緒が不安定なんだ。わざとじゃない」
――は?
私は耳を疑った。
それだけ?
レヴィは、それだけしか言わないの?
頭の中で何度も思い描いていた光景が、一瞬で音を立てて崩れ落ちる。怒りに燃えたレヴィが階下へ降りていき、ナタリーの腕を乱暴につかみ、私の前に跪かせる――そんな場面は、全部、幻みたいに消えた。
かえって、腹の底が煮えくり返る。
「謝罪なんかいらない!」
涙をこぼしながら、私は声を張り上げた。
「私が欲しいのはそんなものじゃないわ! あの女を私の前に跪かせて、直接謝らせるの! 叩かれた分は全部、私が叩き返す!」
すると、レヴィの目が一瞬で凍りついた。返答は即答だった。
「それは無理だ」
マイルズが背筋を伸ばし、険しい声で食い下がる。
「なぜだ? リリアンは理由もなく殴られたんだぞ。忘れるなよ、うちの父の会社はもうすぐお前と提携するはずだった」
レヴィはしばらく黙っていた。値踏みするような沈黙。
やがて再び口を開いたとき、その声には一切の譲歩がなかった。
「もしそれが条件なら、残念だが提携は白紙だ。それだけじゃ済まない。お前たちは俺の弁護士団と話をすることになる」
部屋の空気が、すとんと落ちた。
私もマイルズも、ただ彼を見つめるしかない。
マイルズはやっとのことで声を絞り出す。
「お、お前……ナタリーを選ぶのか? 俺たちを切ってまで?」
レヴィは椅子の背にもたれ、迷いなく言い切った。
「ナタリーは俺の女だ。誰にも手は出させない」
私の身体がわなわなと震えた。涙のせいじゃない。怒りのせいだ。
レヴィは私といるとき、あんなに楽しそうだった。毎日のように私を抱いて、家にもほとんど帰らなくなっていた。
それなのに、どうしてまだナタリーにこだわるの?
結局、レヴィの中では、私はまだナタリー以下だってこと――?
喚きたくなるほど悔しかった。でも、それ以上に胸を締めつけたのは恐怖だった。
ここで私が強く出すぎれば、レヴィは本当に私を切り捨てるかもしれない。
そう思った瞬間、私は無理やり怒りを飲み込み、涙を拭って、かろうじて笑みを作った。
「レヴィ、別に本気でナタリーを跪かせたいわけじゃないの。あの人とは違って、私はただ感情的になっちゃっただけ。でも……」
私は彼にそっと身を寄せ、自分の肩をかすかに震わせる。
「今日の私がひどく傷ついたのは本当よ。だから、ちゃんと埋め合わせして」
すると、レヴィの表情はようやく少し和らいだ。私がよく知っている、あの甘い優しさが戻ってくる。
「もちろんだ」
結局、私は完璧に取り繕った笑顔を貼りつけたまま、マイルズと一緒に彼のオフィスを後にした。
けれど腹の中はぐらぐら煮え立ったまま。怒りが強すぎて、指先の震えさえ止まらない。
そのとき、ふとマーガレットの顔が浮かんだ。
レヴィの母親。ナタリーを心の底から嫌っている女。
――使える。
私は静かに、ひとつの計画を思いついた。
ナタリー。あの忌々しい女。
こんなもので終わると思わないで。
まだまだ、これからよ。
ナタリー視点
その夜、レヴィは帰ってこなかった。
分かりきっている。取引相手の愛娘であるリリアンを、必死で宥めていたのだろう。
翌朝になって、ようやくマーガレットから連絡が入った。
「小切手の用意はできたわ」
高慢さのにじむ声で、彼女は言う。
「屋敷にいらっしゃい。手続きを終わらせましょう」
望んでいた連絡だった。私はすぐ車を出し、1時間もしないうちに屋敷へ着いた。
マーガレットは応接間で私を待っていた。テーブルの上には、小切手と書類の入ったファイル。
「10億よ。約束どおり」
彼女はファイルをこちらへ押しやった。
「あなたは署名するだけでいいわ」
私はすぐにペンを取らなかった。ファイルを開き、中身を一枚ずつ確認していく。
最初の数ページは、どれも無難な内容だった。守秘義務条項、財産精算の条件、離婚までの手順。事前に話していたとおり、整然と書かれている。
けれど、びっしり並んだ法律用語の中――条項と条項のわずかな隙間に、不意に紛れ込んでいた一文があった。
罠だ。
これに署名した瞬間、マーガレットは好きなだけ虚偽の嫌疑を私に着せられる。
弁護士に一本電話を入れるだけで、私は終わる。
背筋にすっと冷たいものが走った。やはり彼女は、最後まで私を見逃すつもりなどない。
でも、気づいたと悟らせるわけにはいかない。
私は何事もなかったようにファイルを閉じた。手は、ぴたりとも震えていない。
「何か問題でも?」
マーガレットの笑みは崩れない。あんなふうに私へ笑いかけること自体、珍しいのに。
「いいえ、もちろん」
私は顔を上げ、できるだけ率直で誠実そうに見える表情を作った。
「ただ、今日は署名できません。まだ正式に離婚協議書を提出していませんから」
その瞬間、マーガレットの笑みが消えた。顔つきが、一気に冷え込む。
「まだ提出していないですって?」
声が低く沈む。
「では何をしに来たの、ナタリー? わざわざ私の屋敷に来て時間を無駄にさせたくせに、申請すら済ませていないなんて」
私は彼女の目をまっすぐ見返した。逸らさない。
「ご連絡しようとしました。でも、うまくつながらなかったでしょう? だから、せめて自分の責任は果たそうと思っただけです」
マーガレットは私をじっと観察した。疑っているのかもしれない。
けれど最後には、虫でも追い払うように手をひらりと振った。
「なら、さっさと済ませなさい。協議書を提出してからよ。そうしたら10億を渡すわ。二度とこんな手間をかけさせないで。私の忍耐にも限度があるの」
「承知しました」
私はファイルを持って屋敷を出た。車のドアを閉めるなり、ハンドルをきつく握りしめる。
心臓が早鐘みたいに鳴っていた。
危なかった。もう少しで、マーガレットの思惑どおりになるところだった。
もし流し読みで済ませていたら。きちんと読み込まずに判を押していたら。自分の手で自分を破滅させていた。
でも今、あの書類は私の手の中にある。
彼女が何を仕掛けようとしたのか、その証拠として。
都心のショッピングモールの前を通りかかったとき、私はふと車を停めた。
エルヴィンのサイズは覚えている。44、32、38。
借りは返したい。それに私は、彼の会社で働きたいと思っている。
高級紳士服のショップへ入り、私はラックの間をゆっくり見て回った。
必要なのは、エルヴィンに似合う一着。研ぎ澄まされていて、華があって、思わず視線を奪われるようなスーツ。
最終的に、深いグレーの一着を選んだ。
それを手に取った瞬間、私は思わず想像してしまう。あの体格にこれが乗ったら、どれほど映えるだろう、と。
あまりに意識を奪われていて、ショーウィンドウの前を二人の人影が通り過ぎたことにも、私は気づかなかった。
