第2章 桜井家に戻る
綾瀬悠希はベッドで熟睡している男に振り返った。この人、望月恒じゃないんだ。どうりで体が丈夫そうで、少しも病人のようには見えないわけだ。
昨夜の二人の情事を思い出し、綾瀬悠希は罪悪感でいっぱいになり、急いで服を着ると鞄を掴んで逃げ出そうとした。
しかし、ふと考え直す。部屋を間違えてこの人と寝てしまったのは自分だ。このまま立ち去るのは、どうにも道徳に反する気がした。そこで首にかけていたネックレスを外し、鞄の中にあるけの五枚の百元札を取り出してテーブルの上に置いた。さらに紙とペンを取り出し、一言書き残す。
『藤堂さん、ごめんなさい。失礼なことをするつもりはありませんでした。このネックレスはお礼です』
このネックレスは安物ではない。この男性も受け入れてくれるだろう。それに昨夜は彼も楽しんでいたはずだ。よくよく考えれば、彼も損はしていない。
そう思うと、綾瀬悠希は何の気兼ねもなくその場を離れた。
部屋を出てから部屋番号を見上げると、そこには2906と書かれていた。養父に言われた2806ではない。きっと昨夜、媚薬で目がやられてしまったのだろう。
桜井家に戻った綾瀬悠希は、見慣れたここの草木一本一本を眺める。何しろ、ここは自分が十数年暮らした場所なのだ。
あの頃、彼女は養父母に児童養護施設から引き取られた。彼らは新しい服やおもちゃを買い与え、新しい学校にも行かせてくれた。当時の綾瀬悠希は、本当に彼らを実の両親だと思いたかった。
その後、綾瀬悠希は次第に、彼らが自分を身代わりとしてしか見ていないことに気づいていく。ニュースを検索してみると、養父母が自分を養子に迎える一年前、彼らの娘が行方不明になっていた。
だが、その事実を知っても綾瀬悠希は悲しくはなかった。むしろ、自分の存在をありがたいとさえ思った。そうすれば、養父母がずっと悲しみの中に生き続けなくて済むからだ。
ただ残念なことに、身代わりは永遠に身代わりでしかない。本物が戻ってきた途端、身代わりは一文の価値もなくなった。
綾瀬悠希はもう桜井家に戻るつもりはなかった。しかし、おばあ様がとても会いたがっていると言うので、数日だけ滞在することにしたのだ。
桜井恵那が戻ってきてからというもの、養父母は皆手のひらを返し、彼女を使用人のように扱った。そんな中、おばあ様だけがずっと彼女を庇ってくれた。だからこそ、綾瀬悠希はおばあ様の気持ちを台無しにしたくなかった。
電話のベルが鳴り、綾瀬悠希は電話に出る。
「綾瀬さん、先日お話しした件、いかがお考えでしょうか?」
「楠本社長、本当に熱心でいらっしゃいますね。なんだか恐縮してしまいます」
「綾瀬さん、歓律はあなたのような人材を本当に必要としているんです。あなたが帰国されると知ってから、この心はもう昂ってしまって。もしあなたが歓律に来てくれなかったら、私はきっと悲しみで三日は食事が喉を通らないでしょう」
「ははっ」綾瀬悠希は二声笑った。「ご冗談を。でしたら、しばらく歓律にお世話になりましょうか」
「それは本当ですか! ようこそ、ようこそ! 綾瀬さん、実はもう一つ、不躾なお願いがあるのですが」
「なんでしょう」
「今日の午後から出勤していただくことは可能でしょうか? どうにも手に負えない女の子がいまして、ここの先生たちは皆お手上げなんです。ですが、その子の保護者が大物でして、我々も無下にはできず……」
「わかりました。では、午後に伺います」
「いやあ、ありがとうございます、ありがとうございます。本当に助かります。では、午後に歓律でお待ちしております。ご安心ください、待遇は必ず最高のものをご用意しますので」
「ありがとうございます、楠本社長」
仕事の話がまとまった途端、背後から桜井恵那の不愉快な声が聞こえてきた。
「ママ、どうして彼女がここにいるの?」
綾瀬悠希が振り返ると、大きな荷物、小さな荷物を抱えた白鳥秀美と桜井恵那の母娘がいた。彼女は二人に向かって軽く頷き、挨拶代わりとする。
「本当に失礼ね」桜井恵那は彼女に向かって白目を剥いた。
「まったくだわ。挨拶もできないなんて。長年育ててあげたのが無駄だったわね」
ちょうどその時、おばあ様が出てきた。母娘の姿を見るや、たちまち顔を曇らせる。
「何を騒いでるんだい? 悠々ちゃんは小さい頃から私のそばで育ったんだ。あんたたちは思い出したら顔を見て、思い出さなければいないも同然。今更そんなことを言って、恥ずかしくもないのかい」
その言葉に白鳥秀美の顔は赤くなったり白くなったりしたが、おばあ様には何も言えず、矛先を綾瀬悠希に向けた。
「あなたは二度と戻らないと言っていたじゃない? まだ数年しか経ってないでしょう。どうなの、桜井家を出てからの生活は苦しいんじゃない?」
綾瀬悠希は彼女を無視し、おばあ様を椅子まで支えて座らせ、お茶を一杯淹れてから、ようやく白鳥秀美の方を向いた。
「おかげさまで、この数年はそれなりに上手くやっています」
なぜか、白鳥秀美は綾瀬悠希のその飄々とした様子を見るだけで、腹の底から怒りがこみ上げてくるのだった。
そもそも彼女を養子にしたのは、娘を失った苦しい心を慰めるためだった。しかし、やはり実の子ではない。どうにも懐かなかった。その後、実の娘が見つかってからは、綾瀬悠希に対して一層冷たくなった。
それなのにこの子は癇癪持ちで、少し家事を言いつけられたこと、恵那の代わりに望月家のあの小僧に嫁ぐこと、ただそれだけのことで、まさか縁を切ると言い出すとは。
自分の娘は外で長年苦労してきたというのに、綾瀬悠希は桜井家でこれだけの福を享受してきたのだ。一体何が不満だというのか。
一方、傍らに立つ桜井恵那は、すでに綾瀬悠希を頭のてっぺんから爪先まで値踏みしていた。彼女の想像では、綾瀬悠希は惨めな暮らしをしているはずだった。しかし、目の前の綾瀬悠希は顔色も良く、身につけているものも安物には見えない。洗練されていて、堂々とした雰囲気をまとっている。
かえって隣にいる自分が少し野暮ったく見えてしまうほどだ。
桜井恵那は少し不服だったが、それを表には出さず、甘く微笑んで優しく言った。「悠々ちゃん、元気そうで安心したわ」
「結構よ」綾瀬悠希は冷ややかに言った。「誰に見せるための芝居? 気色悪い」
もとより綾瀬悠希を快く思っていなかった白鳥秀美は、その言葉を聞いてさらに怒りで歯ぎしりした。彼女は綾瀬悠希を指差して罵倒する。
「なんて口の利き方なの、あなたは! 顔ちゃんが親切心で心配してあげてるのに、その情けも受け取らないばかりか、そんなに嫌味なことまで言って。海外で数年、そんなことばかり学んできたの?」
「ママ」桜井恵那は白鳥秀美の腕に絡みついた。「怒らないで。悪いのは全部私なの。私がお父さんとお母さんを奪って、本来悠々お姉さんのものだったはずの幸せな生活を奪ってしまったんだもの。彼女が私のことを嫌うのは理解できるわ。ママ、彼女を責めないで」
その言葉に、白鳥秀美は一層娘を不憫に思った。かつて自分の不注意で桜井恵那を失い、長年苦労をさせてしまった。彼女は戻ってきてからも自分を責めることなく、むしろ常に綾瀬悠希に優しくするよう諭してくる。
それなのに、あの綾瀬悠希は少しも物分かりが良くない。まさに恩知らずだ。
白鳥秀美は桜井恵那の手をぽんぽんと叩き、痛ましげに言った。「顔ちゃん、どうしてそんな風に思うの? これは全部、元々あなたのものだったのよ。あの子が運良く、あなたの代わりにしばらく享受していただけ。絶対にこのことで気負い目を感じたりしちゃだめよ、わかった?」
母娘のその一唱一和の様子に、綾瀬悠希は思わず何度も白目を剥いた。桜井家の御隠居様はゆっくりとお茶を一口すすると、やおら口を開いた。「さすがは母娘だねえ。演技も同じくらい下手くそだ」
綾瀬悠希は思わず吹き出してしまった。白鳥秀美は腹を立てたが、桜井家の御隠居様の前では何も言えず、綾瀬悠希をきつく睨みつけることしかできなかった。
