第3章
女は、目を奪われるほどの佇まいだった。
ドレスがしなやかな曲線を鮮やかに浮かび上がらせ、その立ち姿だけで格の違いを思わせる。
とりわけ、あの仮面。
神秘と気品をいっそう濃く纏わせていた。
スタッフたちはみな見惚れ、舞台の上のモデルは誰なのか、こんな顔は今まで見たことがないと口々に囁き合う。
次の瞬間、客席からはどっと拍手と感嘆が湧き起こった。
温水真雲でさえ、思わず感心したように言う。
「承弦、あのモデル、なかなかいいんじゃない?」
深沢承弦は、壇上のその姿を食い入るように見つめていた。
胸の奥を、何かが不意に強く打ったような感覚が走る。
似すぎている。
体のバランスも、振り向くときの仕草も――末永言葉によく似ていた。
まさか。
深沢承弦は、すぐにその考えを打ち消した。
三年一緒にいたのだ。
言葉は洗濯と料理ばかりしていた。あんな圧のある空気を纏えるはずがない。
きっと最近、疲れが溜まっているせいだ。
そんな錯覚に決まっている。
それでも視線だけはどうしても外せなかった。
女は華やかにターンし、そのまま幕の向こうへ消えていく。
ファッションショーは大成功のうちに幕を閉じ、会場は割れんばかりの喝采に包まれた。
バックステージへ戻ると、末永言葉はゆっくりと仮面を外し、ドレスを脱いだ。
胸はまだ、どくどくと早鐘を打っている。
さっきは本当に緊張した。
とくに深沢承弦と視線がぶつかった瞬間など、危うく足運びを乱しかけたほどだ。
そこへ林田咲子が駆け込んできて、興奮した様子で彼女の手をぎゅっと握る。
「言葉、最高だった! さっき、何社ものアパレル会社があなたの連絡先を知りたいって言ってきたのよ!」
末永言葉は困ったように笑った。
「やめてよ。私、人前に出るのはあまり好きじゃないの」
「ええ~、もったいない……」
林田咲子は少し残念そうにしたものの、すぐにまた笑顔になる。
「でも、とにかく今日は本当にありがとう! さ、みんなでごちそう食べに行こう!」
末永言葉は、彼女の後ろにいる大勢のスタッフをちらりと見て、小さく首を振った。
「私はいいわ。みんなで行ってきて」
林田咲子も、彼女が賑やかな場を好まないことはよく知っている。
それ以上は勧めず、あっさり頷いた。
「そっか。じゃあ、私たち先に行くね」
末永言葉は頷き、彼女を見送った。
それから自分もバッグを手に取り、帰ろうとした、そのとき――
深沢承弦と温水真雲が、中へ入ってきた。
深沢承弦と目が合った瞬間、末永言葉は慌てて視線を落とす。
そのまま立ち去ろうとすると、温水真雲が声をかけた。
「末永さん、さっきラストを歩いたモデル、見ませんでした?」
末永言葉は足を止める。
「どうしてですか」
「所作がとても綺麗だったから、私のモデルをお願いできないかなって思って」
末永言葉は少し迷ってから答えた。
「急きょ代役を頼まれただけみたいなので……たぶん、お引き受けにはならないと思います」
「そうなの……」
温水真雲は心から惜しそうに眉を下げた。
だが彼女が次の言葉を口にする前に、末永言葉はそっと身をかわし、その場を後にする。
去っていく背を見ながら、温水真雲が感心したように呟いた。
「末永さんって、意外と顔が広いのね。ずっと、洗濯と料理しかできない専業主婦だと思ってたわ」
言い終えても隣の深沢承弦から反応がないことに気づき、様子を窺うように呼ぶ。
「承弦?」
深沢承弦は、そこでようやく我に返った。
「……何だ?」
温水真雲の目が一瞬だけ翳る。
けれどすぐ、やわらかな声で言った。
「もう遅いし、末永さんを一人で帰すのは危ないわ。送ってあげたら?」
断るだろうと思っていた。
なのに深沢承弦は、迷いもなく車のキーを手に取る。
温水真雲は、彼が出ていく背中をじっと見送った。
その指先が、わずかにきゅっと強くなる。
「言葉」
外へ出た深沢承弦は、足早に末永言葉へ追いついた。
「送る」
末永言葉は断ろうとした。
けれど彼はすでに先回りして車のドアを開けている。
外には記者の姿もある。
目立ちたくなかった末永言葉は、結局、渋々車に乗り込んだ。
走り出した車内には、重たい沈黙が落ちる。
二人とも口を開かず、その空気だけが妙にぎこちなかった。
やがて深沢承弦が、先に沈黙を破る。
「さっきのモデル……」
末永言葉の肩がぴくりと強張った。
「知り合いか? どこかで見た気がしたんだが」
心臓が、どくんと大きく跳ねる。
それでも彼女は必死に平静を装った。
「咲子さんが呼んだ人みたいです。私も知りません」
深沢承弦はバックミラー越しに彼女をちらりと見たが、それ以上は追及しなかった。
少し間を置いてから、淡々と言う。
「今日は用が入った。離婚の手続きは、また今度にしよう」
――そんなに急いでいるんだ。
末永言葉は喉がきゅっと詰まるのを感じ、窓の外へ顔を向けた。
「好きにすれば」
声はひどく淡かった。
深沢承弦は何も言わない。
ただ、ハンドルを握る手にわずかに力がこもる。
彼女はいつもそうだ。
何を言っても逆らわず、静かに従う。
前はそれを、優しくて聞き分けがいいと思っていた。
なのに今は、理由の分からない苛立ちだけが胸に残る。
「例のペンダント」
ふいに深沢承弦の視線が、彼女の何もない首元に落ちた。
「今日はつけてないのか」
末永言葉の体が一瞬こわばる。
ドレスに着替えるときに外しただけだ。
けれど、そんなことをわざわざ説明する気にはなれなかった。
「……うん」
短く答える。
すると深沢承弦は、鼻で笑った。
「そうか。新しい生活を始めるなら、昔を引きずるものなんて必要ないよな」
その言葉に込められた棘を、末永言葉ははっきり感じ取った。
眉を寄せる。
「どういう意味?」
「別に」
深沢承弦はそれだけ言って、急にハンドルを切った。
末永言葉の体がぐらりと揺れ、危うく彼の胸元へ倒れ込みかける。
やがて車は、末永家の本宅の前で止まった。
「着いた」
そう言いながらも、深沢承弦はすぐにはロックを外さない。
末永言葉がドアノブに手をかけても、開かなかった。
彼女は振り向く。
深沢承弦もまた、薄暗い車内で彼女を見返していた。
複雑な光を宿したまま、何かを言いかけて――結局、ごく浅く笑う。
「家まで来たんだ。挨拶くらいしていくか?」
「結構です」
末永言葉は即座に断った。
カチリ、とロックが外れる。
末永言葉はすぐに車を降り、そのまままっすぐ末永家の門へ向かった。
深沢承弦は、すぐには発車しなかった。
車の中から彼女の後ろ姿を見つめ、細い影が夜の闇に溶けて見えなくなるまで、じっと目で追い続ける。
末永言葉は門の前まで来て、しばらく立ち尽くした。
インターホンを押そうと手を上げる。
けれど、その手は半空で止まったまま、どうしても前へ進まない。
深沢承弦に嫁いでから、一度もこの家には戻っていない。
あのとき両親は、彼女を愚かだと叱った。
よりにもよって障害を負った男のもとへ嫁ぐなんて、と。
今さら、こんなふうに惨めに戻ってきて――受け入れてもらえるのだろうか。
考えれば考えるほど、胸が苦しくなる。
結局、呼び鈴を押す勇気は持てなかった。
寂しげに踵を返し、その場を去ろうとした、そのとき。
背後から、震える声が聞こえた。
「言葉……? あなた、言葉なの……?」
