第5章 もう離婚した

病室は、ぞっとするほど静まり返った。

末永言葉はその場に立ち尽くし、涙で顔がぐしゃぐしゃだった。

「お父さん、私……間違ってた……この三年、一日だって家のこと忘れたことない。あなたたちのこと、想わなかった日はない……」

声は砕け、うまく繋がらない。

「帰ってくる勇気がなかったの。まだ怒ってるって思って……許してもらえないって、ずっと……」

どれほど愚かなことをしてきたのか。

病室の扉が音もなく押し開けられたことに、言葉は気づかなかった。

深沢承弦が入口に立っていた。

涙の跡だらけの彼女の顔を見た瞬間、表情が沈む。

末永の父がそれに気づき、顔を真っ黒にして吐き捨てる。

「おや、深沢社長まで? 珍しい客だな。もう立てるようになったのか。娘がよほどよく世話したんだろう」

承弦の足が止まる。喉仏がごくりと動き、反論の言葉が出てこない。

この三年、言葉が自分のために何をしてきたか――誰よりも承弦が知っている。

深夜の付き添い。赤く腫れた目。工夫を凝らした栄養食。息が詰まるほどの献身。すべてが脳裏に焼き付いている。

言葉は俯き、指を絡めて、穴があったら入りたいほどだった。

「おじさん」

承弦が低く口を開く。

「この三年、言葉は確かに苦労しました。俺の借りは……感謝の一言じゃ済まない」

一拍置いて、俯いた横顔へ視線を落とす。

「俺が悪かった」

父は鼻で笑い、目の縁を赤くしたまま言い放つ。

「うちの娘はいい娘だった。お前のせいで三年、家に帰れなかった。深沢家の敷居は高すぎる。うちは高攀できない。帰れ」

承弦は動かず、言葉を見る。

「言葉」

言葉が顔を上げる。赤く腫れた目で、まっすぐに。

「あなた先に帰って。私は帰らない」

父の怒りが再燃する。

「出ていけと言ったら――」

「彼女はここに残してください」

承弦が遮り、淡々と言った。

「俺は帰ります」

そう言って踵を返し、病室を出ていった。

病室に、再び静けさが落ちる。

父は胸を上下させたまま立っていたが、もう追い払おうとはしなかった。

母が小さく言う。

「言葉、おいで」

言葉が一歩踏み出した瞬間、父がふん、と鼻を鳴らし、付き添い椅子にどさっと座り込んだ。背中を向ける。

「ほら、口が悪いだけで……」母が困ったように笑う。

「全部聞こえてる!」

父は振り向かないまま、ぶっきらぼうに言った。

「お前の母さんは晩飯まだだ。保温桶にスープが入ってる」

言葉はきょとんとして、それから慌てて頷いた。涙を拭い、スープをよそう。

病室の外。

廊下の片隅で、承弦はその光景を見つめて深く息を吐いた。

エレベーターへ向かおうとしたとき、医師に呼び止められる。

「林田彩智さんのご家族ですか? 入院手続きの追加が必要でして」

承弦は病室内で母にスープを飲ませている言葉を一瞥し、ふっと思い出して頷いた。

「俺がやります」

病室では、スープを飲ませ終えると、父が突然振り向き、札を数枚取り出して突き出した。

「下で支払いしてこい」

言葉はその札を見て、また目の奥が熱くなる。

父の意図が分かる。口では追い出しながら、こうして居場所を作ってくれるのだ。

「お父さん、私お金なら――」

「行けと言ったら行け」

札を押し付けられ、言葉は小さく頷いて病室を出た。

エレベーターで一階へ降りる。会計窓口はほどほどに列ができていた。

列に並びながら、頭の中はぐちゃぐちゃだった。さっきの光景が、何度も何度も巻き戻される。

「末永嬢?」

背後から、聞き覚えのある声。

振り向いた言葉は、固まった。

温水真雲がそこにいた。薄灰のトレンチコート、手には診療票。

妙に血色がよく、この場所だけ浮いて見える。

「偶然ね、また会った」

真雲は近づき、言葉の顔を一巡する。

「具合が悪いの?」

言葉は視線を落とした。

「違います。家族が入院してて」

「そう……」

真雲は頷き、柔らかく続ける。

「私も検査に来たの。承弦がね、帰国したばかりだからって、全面検診しろって。心配性なのよ、あの人」

頬に幸福そうな色が差す。

言葉の指が、支払い票を握りしめた。

「末永嬢、一人で?」

真雲が思い出したように首を傾げる。

「承弦は? 付き添ってないの?」

「用事があるんです」

言葉は淡々と答えた。

「そうよね」

真雲は溜息をつきながらも、どこか誇らしげだ。

「今夜はショーの打ち上げに付き合ってくれるはずだったのに、私が『いい』って言っても無理して断って。さっきもメッセージが来て、『何階?』って。来なくていいって言ったのに、聞かないの」

スマホを軽く振り、優しく笑った。

胸の奥が、針でちくりと刺される。

承弦が病院へ送ってくれたことも、父の前で庇ったことも――結局、ついでだったのか。

彼が本当に気にしているのは、別の女。

「次の方どうぞ」

番号を呼ばれ、言葉は感情のない声で言った。

「私です」

会計へ向かい、支払いを済ませても振り返らない。

上りのエレベーターで壁に背を預け、目を閉じた。

大丈夫。

もうすぐ夫婦じゃなくなる。誰を気にかけようと、彼の自由。

それでも、胸の奥の鈍い痛みはどうしても消えなかった。

病室のフロアに戻り、廊下を曲がったところで――承弦が病室の前に立っているのが見えた。

書類の束を手に、小窓から中を覗いている。

足音で承弦が振り向く。

「終わったか」

言葉は頷き、書類を受け取ろうと手を伸ばした。

だが承弦は渡さない。

「今夜どこに泊まる」

言葉は一瞬詰まり、それから淡々と言う。

「自分で何とかします」

承弦が眉を寄せた。

「こんな時間に、何とかって何だ」

「深沢社長に心配される筋合いはありません」

言葉はもう一度、書類へ手を伸ばす。

今度は承弦が手を離した。

受け取った言葉が病室へ入ろうとしたとき、背後から呼ばれる。

「言葉」

言葉は足を止めたが、振り返らない。

承弦は数秒沈黙してから、掠れた声で言った。

「今夜……俺が残ろうか。手伝えることがある」

言葉の手が、ドアノブの上で止まる。

ゆっくり振り返り、承弦を見た。

瞳は暗く、揺れない。

「深沢社長」

声は冷えた水のように澄んでいる。

「離婚って言い出したのは、あなたです」

承弦の顔色が一瞬変わる。

「ここは病院。私の家族の病室です」

少し間を置き、言葉は淡々と刺した。

「あなたは、何の立場で残るんですか?」

承弦は口を開くが、言葉が出ない。

「温水嬢は一階で待ってます」

言葉の目は平らだった。

「待たせないであげて」

そう言って病室へ入り、扉を静かに閉めた。

承弦はその場に立ち尽くす。

やがて看護師が不思議そうに見てくるまで、動けなかった。

そしてようやく、エレベーターへ向かった。

前のチャプター
次のチャプター