第6章 その女の服を剥ぎ取れ
翌朝。
末永言葉は付き添い用の椅子で目を覚ました。首がひどく痛む。
母はまだ眠っている。枕元には父の置き手紙があった。朝飯を買ってくる――そう書かれている。
見慣れた字を目にした途端、つんと鼻の奥が熱くなった。
そのとき、スマホがぶるっと震える。林田咲子からだった。
「言葉、そっちは大丈夫?」
「うん、たいしたことない」
林田咲子はほっとしたように息をついた。
「昨日のショーのあと、何社も一緒にやりたいって声かけてきたの。全部断ったんだけど、1社だけ……海外のSHが」
末永言葉は息をのんだ。
SH。
世界でも指折りのファッションデザイン会社。大学時代、彼女が憧れ続けた場所だ。
卒業制作でSHの新人賞を取ったとき、向こうは彼女に海外で学ばないかと声をかけてくれた。
けれど、彼女は断った。
深沢承弦のために。
「向こう、アジア圏のデザイナーを探してるんだって。昨日のショーの映像を見て、どうしてもあの仮面のモデルに会いたいって。言葉、こんなチャンス滅多にないよ? ずっと海外で勉強したいって言ってたじゃない」
末永言葉は、すぐには返せなかった。
林田咲子は少し焦れたように、それでも声をやわらげる。
「ほんとに行かないの? 昨日のあなた、どれだけ輝いてたか自分でわかってる? 大学で賞を取ってた頃のあなたの目、ちゃんと光ってた。なのに、あの人に嫁いでから、全部手放しちゃった」
末永言葉はスマホを握る指に、そっと力をこめる。
「そんな顔のまま、ずっと苦しんでるあなたなんて見たくない」
林田咲子は静かに言った。
「あなたには、もっといいものがある。恋だけじゃない。あなた自身の人生も」
末永言葉は顔を上げ、病床で眠る母を見つめた。
この3年。
彼女の中には、深沢承弦しかなかった。
仕事もない。
友人もない。
自分自身さえ、どこかへ置き去りにしてしまった。
そして今、その深沢承弦さえ失った。
「その集まり、何時から?」
ようやく口を開く。声はひどく小さかった。
「今日の15時。城中城アートセンター。小規模のデザイナー交流会だから、顔を出すだけでいいよ」
末永言葉は2秒ほど黙ってから言った。
「行く」
午後2時半。
末永言葉は城中城アートセンターの入口に立っていた。
古い建物を改装した展示館。表には高級車がずらりと並んでいる。
彼女は自分の格好を見下ろした。白いシャツに黒のパンツ、足元はフラットシューズ。ごくシンプルな装いだ。
会場へ入ると、大きなシャンデリアが頭上から垂れ下がり、中央にはシャンパンタワーがきらめいていた。
末永言葉は目立たない隅を選んで立ち、壁一面に並ぶデザイン画へ目を向ける。
真剣に見入って、何枚かスマホで写真も撮った。
けれど――しばらくして、妙な違和感が胸にひっかかった。
誰かが見ている。
鑑賞するような視線ではない。
こっそりと値踏みするような、意味ありげな目。
ふと顔を上げると、何人かの女があわてて視線を逸らした。
それでも、またちらちらと彼女のほうを窺ってくる。
末永言葉は眉を寄せ、別の展示エリアへ移動した。
だが、見られている感覚は消えない。背中にぴたりと貼りついてくる。
少し落ち着こう。
そう思って、彼女はバックヤードの休憩室へ向かうことにした。
廊下の奥の扉を開けると、光がふっと鈍くなる。
案内表示に従って進み、休憩室のドアを押した。
その瞬間、足が止まった。
部屋の中に、男が4人、5人。
デザイナーにもスタッフにも見えない。空気からして違う。
ならず者じみた男たちが、彼女を見た途端、いっせいに口元を歪めた。
末永言葉の心臓が、ひゅっと縮む。
「おっ、来たな」
いちばん近くの男がにやにや笑いながら、一歩前へ出た。
末永言葉は反射的に後ずさる。
「……あなたたち、誰?」
「お前を呼んだ側だよ」
頭の中が一気に回り出す。
違う。
SHみたいな世界的ブランドが、こんなチンピラじみた男を寄こすわけがない。
咲子の言葉が脳裏をよぎる。
あの仮面のモデルに、どうしても会いたがっている。
でも、名もない人間ひとりに、世界的企業がそこまで執着する理由なんてあるはずがない。
「……あなたたち、SHの人間じゃない」
声がこわばる。
男は笑った。
「頭いいな。まあ、気づくのがちょっと遅かったけどな」
背後の男たちもどっと笑い出した。
末永言葉は踵を返して駆け出す。
だが出口はすでに塞がれていた。別の男が立ちはだかり、手を伸ばして腕をつかもうとする。
末永言葉は身をひねってかわした。
その拍子に背中が壁へ激突し、鋭い痛みに息をのむ。
「逃げんなって」
男がじりじりと迫る。
「うちの社長が会いたいだけだ。ちょっと話したいってな」
「離して!」
震える声で叫んでも、男は聞かない。
そのまま彼女の服へ手をかけた。
末永言葉は必死に身をよじる。けれど狭い場所に複数人。力の差は歴然だった。
手首をつかまれ、壁に押しつけられる。もがいた拍子に、シャツのボタンが2つ、ぱんっと弾け飛んだ。
絶望が、頭から氷水みたいに降ってくる。
――スマホ。
まだ手の中にある。
隙を見て、彼女はそれを強く握りしめ、震える指で画面をつけた。
緊急連絡先。
登録してあるのは、深沢承弦。
なぜだろう。
考えるより先に、指が動いていた。3年間、呪文みたいに覚え込んだ番号へ。
コールがつながった、その瞬間。
「スマホ寄こせ!」
男の怒号が飛ぶ。
次の瞬間には、スマホは乱暴にもぎ取られ、床へ叩きつけられていた。
ばきっ、と嫌な音がする。
「このアマ、電話なんかしやがって!」
男の手が振り上がる。
末永言葉は咄嗟に顔をそらし、全力で男の脛を蹴った。
男が痛みに顔をしかめ、手がわずかに緩む。
その一瞬を逃さず、彼女は腕の下をすり抜けて部屋の奥へ駆けた。
奥には古い展示台や幕布が雑然と積まれた物置のような一角がある。
末永言葉はその奥へ潜り込み、いちばん深いところで身体を丸め、口を押さえて息を殺した。
「どこ行った!」
「あっちだ、探せ!」
足音が部屋の中へ散る。
がたん、どん、と展示台が倒される音。荒っぽい罵声。
「どこに隠れやがった!」
「まだこの部屋にいるはずだ、外には出られねえ!」
「探せ! 掘り返してでも見つけろ!」
足音が、どんどん近づいてくる。
暗闇の中で、末永言葉は小さく身を縮めた。
心臓が今にも喉から飛び出しそうだ。
幕布の隙間から見えたのは、男の靴。
2mも離れていない。
息を止める。
涙だけが、音もなく頬を伝った。
深沢承弦……来てくれる?
それとも今ごろ、温水真雲のそばにいて、着信ひとつ気づきもしない――?
足音がまた近づく。
男の靴先が向きを変え、まっすぐこちらへ向かってきた。
末永言葉は目を閉じ、そばに落ちていた割れた木片を死ぬほど強く握りしめる。
「いたぞ!」
幕布が乱暴に引きはがされた。
まぶしい光が差し込み、その向こうに、いやらしく歪んだ笑みが浮かぶ。
男は彼女の腕をつかみ、隠れ場所から力づくで引きずり出した。
末永言葉は必死に抵抗し、木片で男の手を切りつける。
「っ、てめえ!」
男は痛みに叫び、逆上したまま思いきり頬を張った。
視界が真っ暗になる。
彼女の身体は床へ投げ出された。
「このクソアマ!」
男は唾を吐き捨てるように怒鳴った。
「服ひっぺがせ! 写真撮れ!」
何人もの男が一斉に取り囲み、手を伸ばしてくる。
末永言葉は、蹴って、噛んで、振りほどいて、無我夢中で暴れた。
それでも力の差は埋まらない。シャツは裂け、肩が露わになる。
冷たい指先の感触。
その瞬間、末永言葉は絶望のまま目を閉じた。
――次の瞬間。
「ドンッ!」
扉が蹴破られた。
部屋の空気が、一瞬で凍る。
末永言葉が目を開ける。涙で滲んだ視界の向こう、逆光の中に立っていたのは――
深沢承弦。
全身から凄まじい殺気を噴き上げ、目は刃のように冷たい。
その視線が室内の男たちをなめた瞬間、いちばん近くにいた男は反応する間もなく顔面を殴り飛ばされていた。
鈍い音。
男の身体が吹っ飛び、後ろの展示台へ叩きつけられる。
悲鳴が上がる。
残りの男たちがいっせいに飛びかかった。
だが深沢承弦は一人を蹴り飛ばし、もう一人を拳で沈める。ためらいはひとかけらもない。
末永言葉は床に縮こまり、震えながらその背中を見つめた。
遅れて飛び込んできたボディガードたちが、残りの男を次々と取り押さえ、床へねじ伏せる。
深沢承弦が振り返り、彼女のもとへ歩いてくる。
しゃがみ込み、その目が落ちた。
裂けたシャツ。腫れた頬。震えの止まらない肩。
「言葉」
名を呼ぶ声が、かすかに掠れる。
末永言葉は彼を見上げた。
大粒の涙がぼろぼろとこぼれ、唇が震える。けれど、何ひとつ言葉にならない。
深沢承弦は自分のスーツのジャケットを脱ぎ、彼女の肩へそっとかけた。
その手が、震えていた。
そして、壊れ物に触れるみたいに慎重な動きで、彼女を抱き上げる。
「もう大丈夫だ」
低く落ちた声。
今まで一度も聞いたことのない、やわらかな熱があった。
「……俺が来た」
末永言葉はその胸へ顔を埋め、ついに堪えきれず声を上げて泣いた。
