第3話

里香の視点

研究室の残務を片付け、悠にその後の指示を出してから帰宅すると、すでに深夜十一時を回っていた。

真っ先に、二階の蓮の部屋の明かりが点いているのが目に入った。

この時間なら、とっくに寝ているはずだ。嫌な予感がふいに胸をよぎり、私は深く息を吸ってからドアを開けた。

玄関のど真ん中に、赤いポインテッドトゥのハイヒール。細いピンヒールが、我が物顔で空間を占領していた。

リビングから、女と子どもの笑い声が聞こえてくる。

一瞬固まったが、それでも足を進めた。

暖色の灯りの下で、和也は長いソファにだらりと凭れ、くつろいだ様子だった。寧々はシルクのガウン姿で隣に座り、二人の間には一人分ほどの距離がある。蓮は寧々の腕の中にすっぽり収まり、小さな頭を彼女の胸に寄せ、テレビの画面に釘付けになってケラケラ笑っていた。

――滑稽すぎる。

私は一瞬意識が遠のいたが、なんとか踏みとどまって中へ入った。

足音に三人が気づく。最初に振り向いた蓮は、私を見た瞬間に笑顔を消し、露骨な嫌悪に変えた。

「なんで帰ってきたの?」

和也も目を上げ、眉をひそめる。

「遅いな」

私は二人を無視し、真っ直ぐ階段へ向かった。

「荷物を少し取って、数日出張する」

「出張?」

和也の口調に疑いが混じる。

「研究室が忙しいのに?」

「研究室のことを、水原社長に報告する必要はありません」

私は振り返らなかった。

「待て」

和也が立ち上がる。

「蓮がアレルギーで入院したのに顔も出さない。母親失格だろ」

失格?

私は足を止め、振り向いた。

「行って、何が変わるの? 寧々を帰らせる? それとも、あなたたちのミスで蓮がアレルギーを起こしたって認める?」

寧々がすぐ口を挟む。

「里香、和也さんを責めないで。全部、私のせい」

目元があっという間に赤くなる。

「グルテンが入ってるなんて知らなかったの。お店がオーガニックだって……」

「知らなかった?」

私は鼻で笑った。

「幼稚園の先生ですら、蓮のグルテンアレルギーが重いって知ってる。父親の秘書で、あれだけ一緒にいて――知らない?」

「俺は寧々に注意した」

和也が苛立って言う。

「ただ、あの日は忙しくて見落としただけだ。誰だってミスはする。なのにお前は、意地を張って病院に来なかった。里香、いつからそんな大人気ない女になった?」

私は目の前の男を見た。五年の結婚で、今夜初めて――彼の顔がひどく見知らぬものに思えた。

「私が大人気ない?」

声は小さい。けれど押し殺した震えが混じる。

「和也。蓮は人前で私に『帰れ』って言って物を投げた。あなたは叱りもしないで、私が大げさだって。今度はあなたたちの落ち度で入院して、私が大人気ない女?」

「どうしたい?」

苛立ちが溢れる。

「寧々は謝った。蓮も無事だ。いつまで引っ張る?」

「彼女を、この家から出して」

一語ずつ噛んだ。

「今すぐ」

リビングに短い沈黙が落ちる。

蓮が突然、寧々の腕を振りほどいて裸足で飛び降り、突進して私を思い切り押した。

「出てけ! ここはぼくの家! 寧々をいじめるな!」

不意を突かれてよろけ、腰が階段の手すりにぶつかる。鈍い痛み。

「蓮!」

思わず声が上ずった。

「私はあなたのママよ! ママにそんなことするの?」

何かを刺されたように、蓮の顔が一瞬で怒りに染まる。ローテーブルのガラスのフルーツボウルを掴み、振りかぶって投げた。

「出てけ! 悪いやつ!」

身をひねって避ける。ボウルは背後の壁に叩きつけられ、粉々に砕けた。ガラス片が散り、一枚の鋭い欠片が私のむき出しの腕を掠めた。血が滲む。

寧々が駆け寄って蓮を抱きしめ、私に背を向ける。まるで私が危害を加えるかのように守る仕草。

「大丈夫、私がいる。怖くない」

そして振り返り、責める口調で言った。

「里香、どうしてそんなふうに子どもを怯えさせるの? まだ小さいのよ。少しは譲ってあげられない?」

和也は近づき、まず寧々の腕の中の息子を確認する。無事だと分かってから、ようやく私を見る。腕の血に気づいて眉を深く寄せたのに、口から出たのは――

「子ども相手に張り合うな。分別がないのはあいつだ。お前まで分別を失うな」

私は腕の細い傷を見る。血が皮膚の筋に沿って広がり、真っ赤な線を引いていく。

ふと思い出した。蓮が三歳の頃、公園で走って転んで膝を擦りむいた。私は胸を痛めながら抱えて病院へ走り、包帯のとき痛がって暴れる彼に蹴られ、顎を打たれた。けれど私の最初の反応は、彼の足が怪我していないか確認することだった。

今、私の息子はガラスのボウルを投げつけ、夫は「子どもを怯えさせた」と私を責める。

「そうね」

私は小さく繰り返し、ふっと笑った。

「私が分別がない」

しゃがみ込み、散らばったガラスを一枚ずつ拾い始める。

「何をしてる」

和也が訊く。

「片づけるの」

顔を上げず、機械みたいに手を動かす。

「踏んだら危ないから」

鋭い欠片が指先を切った。血が白い大理石に落ち、鮮烈な赤がにじむ。痛みは感じないかのように、拾い続けた。

寧々は蓮を抱いて階段へ向かう。

「怖くないよ、ね? お風呂入ろう」

すれ違いざま、蓮はわざと鼻を鳴らした。

最後の欠片を拾い終え、立ち上がってゴミ箱へ捨てる。ペーパーを抜いて手を押さえると、すぐに赤く染まった。

「救急箱はテレビ台の下だ」

和也が背後で言う。声は形だけで、動こうとしない。

私は返事をせず、そのまま二階へ上がった。

「どこへ行く」

追いかけてくる。

「荷物を取って、出張」

主寝室のドアの前に立ち、ノブを握る。――鍵がかかっている。

「鍵は?」

振り向く。

和也の表情が僅かに固まった。

「寧々が最近眠れなくてな。二階の客間は通りに面してうるさい。だから、しばらく主寝室を使わせた」

呼吸が止まった。

合法の妻がまだ家にいるのに、寧々が私の寝室にいる。

――そんなに急いでいるのか。

「開けて。物を取る」

私は疲れすぎて、もう争う気がなかった。

和也は眉を寄せる。

「主寝室は物が多くて眠れないと寧々に言われてな。頼んで、お前の物は一時的に一階の物置に移した」

私は勢いよく彼を見た。

彼は反射的に半歩下がる。

その瞬間、彼が私の目に見たものは、怒りでも悲しみでもない。ただ無音の、骨まで冷えたものだった。

「和也」

私は笑った。

「あなた、本当にすごいわ」

彼は唇を結び、何も言えない。

一秒でもこの家にいたくない。私は踵を返し、一階へ向かった。足元が少しふらつく。

背後から、和也の警告の声。

「ふざけるな、里香」

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