第4話
里香の視点
和也を無視して、私は物置の扉を開けた。
中には私の物が、申し訳程度に置かれているだけ。服は床に積まれているものまである。
私は清潔な服を数着掘り出して畳み、スーツケースに押し込んだ。振り返って出ようとした。
「どこへ行く」
和也が入口を塞ぐ。
「あなたには関係ない」
スーツケースを引いて、彼の脇を押し抜ける。
背後で寧々の声。
「里香、どこに? 和也さん、こんな時間に……」
わざとらしい心配。
和也は冷たく言った。刃物みたいに。
「行きたいなら行け。出ていくなら、二度と戻るな」
私は振り返らなかった。
屋敷の門を出た瞬間、夜風が頬を打った。頭が冴えていく。
――
研究室に戻ったのは深夜。急ごしらえの宿舎は狭くて粗末だ。けれど私は久しぶりに、肩の力が抜けるのを感じた――あの息苦しい場所から、ようやく離れたのだ。
スマホが震える。春からのメッセージ。
【S市行きの便、取り直した。明後日の朝出発。研究室の整理に一日残しておいた。必要なら言え】
私は「ありがとう」とだけ返し、スマホを置いた。深く息を吸い、窓辺へ行く。
この時間でも下では研究員が行き来していた。胸に詰まった重さが、少しだけほどける。仕事は最良の鎮痛剤だ。
翌朝、白衣に袖を通し、髪をまとめて無菌室へ入った。
培養皿の神経ネットワークは順調に育っている。顕微鏡の下で、小さなシナプスの結合が驚くほど複雑に広がっていた。データを記録し、パラメータを調整し――顔を上げれば、もう午後。
スマホが震えた。
表示された名前は、和也。
数秒、画面を見つめてから、私は出た。
「どこだ」
「研究室」
「いつまで拗ねてる」
いつもの苛立ち。
私はスマホを握り締め、声を整えた。
「和也。離婚のこと、真剣に考えて」
「里香」
声が跳ね上がる。
「いい加減にしろ。離婚で脅すのは一、二回なら通用する。何度もやられたら鬱陶しい」
またそれだ。彼の中で、私の決意は癇癪でしかない。急に、ひどく疲れた。
「忙しい。切る」
――
その後の二日間、私はS市で予定がぎっしりだった。データ解析、進捗会議、協力先との電話。頭が回りっぱなし。
悠から電話が来たとき、私は報告書の処理に没頭していた。
「……何だって?」
「O市の学術グループ見ろ! 炎上してる!」
焦った声。
私は半信半疑でチャットを開き、最初の投稿で固まった。
【聞いた? 神経培養プロジェクトの資金取った里香、結婚ヤバいらしい】
【え、水原グループの水原和也と結婚してたよね?】
【良くないって。家庭放り投げて働きに出たがって、夫と子ども捨てたらしい】
【別居したって? 子どもまだ小さいのに、母親ひどすぎ】
【だから女は家庭優先にすべきで……】
匿名の言葉が、石みたいに投げ込まれ、波紋が広がっていく。
画面を見つめる指先が、ゆっくり冷えていった。
家族以外には、別居の話なんてしていない。研究室の人間は、忙しくて宿舎に泊まっているとしか知らない。悠が勘づいていたとしても、漏らすはずがない。
どこから流れた?
私はチャットを閉じ、無理やり仕事へ戻った。けれど胸の奥の糸は、静かに張り詰めていた。
――
本当の攻撃が来たのは、翌朝だった。
夜明け前、通知音が連続して私を起こした。
宿舎は薄暗く、枕元のスマホの画面が点滅し続ける。ろくに眠れていなかった私は朦朧と手を伸ばし、ロックを外した瞬間――完全に目が覚めた。
通知欄が埋め尽くされている。SMSの未読、LINEの申請とメッセージ。知らない番号と知らない名前だらけ。
最新のSMSを開く。知らない番号。内容を見た瞬間、血の気が引いた。
【夫子を捨てたクズ! 母親面するな! 死ね!】
【自分の享楽で子ども捨てるとか、生きる価値ある?】
【可哀想な蓮。こんな自己中な母親に当たって】
次々と、毒が突き刺さる。
LINEも同じだ。何十件もの申請に添えられた文面は、罵倒と呪詛ばかり。
SNSも荒らされていた。
研究室の住所が晒され、大学時代の古い写真まで掘り返され、「虐待」「水原家に取り入った」だの、もっともらしく捏造されている。最近投稿した実験の進捗報告のコメント欄も、汚い言葉で埋め尽くされていた。
【独立女性(笑)。家庭に飽きて外で遊びたいだけ】
【子どもがアレルギーで入院しても顔出さないとか人間?】
【和也さんは被害者。こんな女は捨てて正解】
【顔覚えとけ。里香、夫子を捨てた女】
私はベッドの端に座り、スマホを握ったまま凍りついた。
口元がひきつる。
和也。寧々。息が合っている。
深く息を吸い、電話をかける。呼び出し音の直後に繋がった。
「里香?」
春の朝のしゃがれた声。
「こんな時間に、どうした」
「春」
声が自分でも分かるほど枯れていた。
「……助けて」
「言え」
