第6話
里香の視点
息子の安否まで利用する。
それが和也の、私への最終判決だった。
立っているだけで吐き気が込み上げた。
最後の迷いが、この瞬間に消えた。
私は小さく頷く。確認するみたいに。
「その通りね」
声は波ひとつない。
「あなたたちの言う通り」
一歩下がり、距離を取る。
「離婚協議書は、弁護士に急いで作らせて送る。親権は放棄する。これから先、蓮はあなたの息子。私とは無関係」
そう言い切って、私は誰も見ないまま病室のドアを開け、まっすぐ歩き出した。
廊下の白い灯りが目に刺さる。エレベーターの扉が閉まり、金属の鏡面に映った自分の顔が見えた。青白く、知らない顔。でも不思議なくらい静かだった。
研究室に戻り、弁護士に電話を入れる。
「柏山さん。以前の条件通りで離婚協議書を作ってください。婚姻中の財産は一切いりません。親権は和也に」
「はい、何も要りません。急いで送ってください」
電話を切り、暗い部屋で座ったまま動けなくなる。体は限界なのに、頭だけが異様に澄んでいた。嵐の後の、死んだ海みたいに。
和也の視点
二日後、里香が水原グループのビル下にあるカフェで会いたいと言ってきた。
俺は十分遅れた。
入ると、彼女は窓際に座っていた。ベージュのセーターにジーンズ。髪は適当にまとめ、すっぴん。俺を見る目は淡い。見知らぬ相手を測るみたいに。
向かいに座る。
「電話で済む話じゃないのか」
俺は言った。
「蓮はまだ入院中だ。忙しい」
「長引かせない」
彼女はバッグから書類封筒を出し、テーブルの中央へ滑らせた。
「離婚協議書。確認して、問題なければ署名して」
封筒をすぐには取らず、彼女を見た。理解できないものを観察するように。
「里香、何がしたい」
「離婚」
短く。
「書いてある通り。水原家の財産はいらない。蓮の親権もあなたでいい。面会は――」
少しだけ間を置き、
「あなたと蓮が必要なら調整すればいい。必要ないなら、それでも構わない」
俺は封筒を取り、中の数枚を素早く読む。
読むほどに、顔が沈む。
財産放棄。親権放棄。面会すら投げやり。
書類を置き、椅子にもたれた。
「里香。今度は何の手? 引いて見せて情に訴えるのか。俺に罪悪感を抱かせて、戻ってこいって?」
彼女はコーヒーを一口飲み、カップを戻して俺を見る。瞳の奥に、憐れみの色すらある。
「和也。世界が全部あなた中心で回ってると思ってるの? 何もかも、あなたの脚本通りじゃないと気が済まない?」
その言葉に、俺は一瞬詰まった。
「私にそんな駆け引きの時間はない」
淡々と続ける。
「ただ、もうあなたと一切関わりたくないだけ。蓮は今、本当に寧々が好き。私が署名すれば、あなたたち三人で滞りなく暮らせる。邪魔者の私がいないほうが――いいでしょう?」
「三人で暮らす?」
俺の声が跳ね上がる。
「里香、言い方に気をつけろ。寧々は蓮の世話を手伝ってるだけだ」
「好きに言えば」
肩をすくめる。
「彼女が何でも、私には関係ない。署名したら私の弁護士に連絡して。連絡先はそこ」
彼女は立ち上がり、バッグを持つ。
「里香!」
俺も立ち、手首を掴んだ。強い力で。
「いつまで騒ぐつもりだ」
彼女は俺の手を一度見下ろし、次に目を上げて微かに口角を上げる。
「水原さん。公の場で引っ張り合うのは見栄えが悪いわ」
静かな声。
「あなたが気にしないならそれでもいい。でも寧々の名誉と、水原グループの株価には多少響くかもしれない」
俺は反射的に手を離した。怒りで顔を強張らせ、胸を微かに上下させる。
彼女は赤くなった手首をさすり、こちらを見ずにカフェを出ていった。
俺は立ち尽くし、ガラス扉の向こうへ消える背中を見送った。テーブルの離婚協議書に目を落とす。
財産を全部捨てる? 本気で?
苛立ちに任せ、書類をぐしゃっと握り潰し、ゴミ箱へ投げようとして――止まった。
その皺だらけの紙は、結局スーツの内ポケットへ押し込んだ。
病院に戻ると、蓮がちょうど目を覚ましたところだった。
唇を尖らせ、きょろきょろする。
「パパ、ママは?」
しゃがれた声。目はまだ赤い。
俺はベッド脇でメールを処理していて、指が一瞬止まった。顔は上げない。
「用事だ。帰った」
「帰った?」
声が泣きそうになる。
「ママ、ほんとにボクいらないの?」
俺は黙ったまま、答えない。
寧々がすぐ身を寄せ、柔らかく笑った。
「ママはお仕事が忙しいのよ。蓮は分かってあげないと。男の子でしょ、しっかりしなきゃ」
「退院したら、遊園地に行こうね。大きい観覧車に乗って、わたあめ食べよう?」
蓮の目がぱっと明るくなり、勢いよく頷いた。
俺はそれを見て、視線を画面へ戻す。黙り込んだまま。
ポケットの中の皺だらけの紙が、指に硬く当たっていた。
