第3章
南川茜視点
文弘が私の部屋に入ってきた途端、私はすぐさま弱り切ったふりをして、激しく咳き込んでみせた。
彼が目を離した隙に舌先を強く噛み破り、口の端からツツーと鮮血を垂らす。
「茜!」
文弘が血相を変えて駆け寄り、私の身体を抱き留めた。
私は力なく彼の胸に寄りかかり、かすれた声を絞り出す。
「大丈夫よ、文弘……。もう帰って。愛美が家で待っているんでしょう……?」
彼は私の手をきつく握り締めた。
「茜、約束する。君の願い通り、必ず愛美とはすぐに離婚する」
私はハッとして顔を上げた。
「本当? 愛美は離婚に同意してくれたの?」
彼の顔に苛立ちの影が差す。
「まだ首を縦には振っていないが、遅かれ早かれ同意させる。君は何も心配せず、今はただ病気を治すことだけを考えてくれ」
私はわざと彼の身体にすり寄った。
「じゃあ、今夜は……ここに残って、私と一緒にいてくれる?」
「茜、君は今身体の具合が悪いんだ。まずは医者に診てもらおう」
そう言う彼の眼差しは、途方もなく優しい。
「シャワーを浴びてくる。今夜はずっとそばにいるよ」
その言葉を聞いた瞬間、私の身体は強張った。
彼の首筋に、生々しい赤いキスマークと、うっすらとした爪痕を見つけてしまったからだ。
クソッ! 愛美のクズ女め!
今日は私の誕生日だというのに、文弘は家に帰ってあの女とヤっていたのだ!
だが、私は腹の底で煮えくり返る怒りを必死に押し殺し、いかにも感激したような表情を作った。
「ありがとう、文弘」
*
文弘がバスルームへ向かった後、私の専属医が部屋に入ってきた。
「南川様、本当にアルファである文弘様を騙し続けるおつもりですか?」
彼はひどく強張った顔で私を見下ろす。
「いつか真実が露見するのではないかと、気が気ではありません」
「黙りなさい!」
私は冷たく言い放つ。
「私が病気だと言ったら、病気なの。あの人が私の言葉を疑うはずがないわ」
何しろ、私は彼の命の恩人なのだから。
十年前、ゴールデンムーン・パックで血みどろの暴動が起きた。
文弘は、私が彼を救ったのだと固く信じている。彼を庇って銀の弾丸を受け、そのせいで後遺症の銀毒症を患ったのだと。
そんな私を、彼が疑うわけがない。
本当に彼を救ったのが誰かなど、私にはどうでもいいことだ。
彼が私を妻に迎えてくれるのをずっと待っていたのに、彼のお爺様が、無理やり愛美を選ばせた。
どこの馬の骨とも知れない、狼の血すら持たないただの女が、あろうことか彼のルナになったのだ。
だが今、その邪魔だったお爺様も死んだ。この絶好の機会を逃す手はない。
私は医者に偽の診断書を用意させ、わざと自分の誕生日に文弘に見せた。
案の定、彼は私を愛している。
私の身体を気遣うあまり、手を出してこないのはもどかしいが、遅かれ早かれ私は彼のルナになる運命なのだ。
私はセクシーな黒いレースのネグリジェに着替え、文弘の部屋へとこっそり忍び込んだ。
彼は上半身裸のまま、ベッドで既に寝息を立てていた。
私はスマホのカメラを起動し、彼の腕にぴったりと身を寄せて、いかにも事後を匂わせるような写真を一枚撮る。
そして、その画像を愛美に送りつけた。
愛美からの返信はなかったが、代わりに文弘のスマホが震え出した。
画面には愛美の名前が光っている。私は一瞬の躊躇もなく、即座に着信を切った。
文弘と連絡を取る隙など、一ミリたりとも与えるつもりはない。
*
翌朝。目を覚ました文弘は、私が自分の腕の中にいることに気付くと、弾かれたように身を起こした。
「茜? どうして俺のベッドに?」
私はすぐさま、捨てられた子犬のような顔を作る。
「ごめんなさい、文弘……。昨日、お医者様の治療を受けた後、どうしても痛みが我慢できなくて……あなたの部屋に来てしまったの」
うつむき、わざと声を詰まらせる。
「あなたの奥さんが愛美だってことは分かっているのに。ごめんなさい、私、こんなことしちゃいけなかった……」
途端に、文弘の顔に深い罪悪感が浮かんだ。
「君を責めるわけがないだろう。茜、身体の具合はどうだ?」
私は彼の肩にそっと寄りかかる。
「もう、ずっと良くなったわ」
「安心してくれ。今すぐ家に戻って、愛美と離婚してくるから」
彼の言葉に、私は甘えるように見つめ返す。
「私も一緒に行っていいかしら? だって、愛美に申し訳ないことをしたのは私だもの」
「そんなふうに言うな、茜」
文弘は私の言葉をきっぱりと遮った。
「悪いのは俺の方だ。君は俺の命を救ってくれたのに、俺のせいでこんな病気を抱えることになってしまったんだから」
*
私は文弘の後に続き、ゴールデンムーン邸へと足を踏み入れた。
広い屋敷の中は不気味なほど静まり返っており、愛美の姿はどこにもない。
寝室のドアを押し開けた次の瞬間――私は思わず悲鳴を上げた。
「文弘……っ!」
ふかふかの絨毯の上に、どす黒い血だまりがべっとりと広がっていたのだ。
足早に寝室へ入ってきた文弘も、その血痕を目にして眉間を鋭く寄せる。
彼はすぐさまメイドを呼びつけ、厳しい声音で問いただした。
「愛美はどこへ行った? この床の血はいったい何だ!」
メイドは震え上がり、しどろもどろに答える。
「わ、私には分かりません。昨日の夜、奥様はとても嬉しそうに『旦那様に伝えたいニュースがあるの』と仰っていて、夕食もご自身で作られていました。その後、私は下がりましたので……」
私の心臓がドクンと嫌な音を立てた。愛美が文弘に伝えたいニュース? 何のことだ?
文弘がスマホを取り出して電話をかけるが、コール音すら鳴らない。
「クソッ! あの女、電源を切りやがったのか!」
私はさりげなくベッドへ視線を走らせる。すると、枕の下から白い紙の端が覗いているのが見えた。
文弘が目を離している隙に素早く近づき、その紙を抜き取る。
――エコー写真の検査結果だ!
クソッ! 愛美の奴、妊娠していたというの!?
「茜、何を見ているんだ?」
不意に背後から声をかけられ、私は慌てて検査結果を背中に隠した。
「な、何でもないわ。ちょっと気になっただけ」
文弘は再びメイドに向き直る。
「すぐに監視カメラの映像を確認しろ。愛美がいつ屋敷を出たのか、この血が何なのか突き止める」
「待って!」
私はとっさに彼を引き止めた。
そして、努めて軽い調子を作って微笑む。
「たぶん、愛美は生理が来ただけじゃないかしら。同じ女だもの、私には何となく分かるわ」
彼は納得のいかない顔で眉をひそめる。
「だが、さっきスマホを見たら、昨夜あいつから着信があった履歴が残っていたんだ」
しまった! 着信履歴を消すのを忘れていた。
私は焦りを隠して彼の腕にすがりつく。
「きっと、離婚の話を急に受け入れられなくて、取り乱したのよ」
文弘は露骨に不快そうな顔をした。
「本当に、あいつはどうしようもなくガサツだな!」
私は心の中で安堵の息を吐き、メイドに絨毯の血を片付けるよう命じると、文弘の腕を引いて書斎へと向かった。
「もう離婚を決めているなら、今すぐ弁護士に連絡して、離婚協議書の準備をさせた方がいいわ」
文弘は無言で頷いた。
彼が弁護士と電話で話している隙に、私はこっそり書斎を抜け出す。シュレッダーを見つけると、あのエコー写真を躊躇いもなく粉々に粉砕した。
愛美が妊娠していたことなど、絶対に彼に知られるわけにはいかない。
*
その後、私は文弘の名を騙って警備室へと向かった。
警備員は私に逆らうことなどできず、すぐに監視カメラの映像を引っ張り出してくる。
夜明け前――愛美が一人の女に抱えられながら屋敷を出て行く姿が映っていた。
彼女は完全に意識を失っているようで、身にまとったネグリジェは血で赤く染まっていた。
私は警備員を冷たく見下ろし、厳命する。
「この映像は消去しなさい。アルファからの命令よ」
データが完全に削除されたのを見届けて、私はようやく肩の荷を下ろした。
警備室を出たところで、ばったりと文弘に出くわした。
「茜? こんな所で何をしているんだ?」
彼は驚いたように目を見張る。
「愛美のことが心配で、念のため映像を確認しに来たの」
私は極めて自然な口調で答えた。
「今朝、普通に屋敷を出て行くところが映っていたわ。何も異常はなかった」
「きっと、あなたとの離婚を受け入れられなくて、一時的に姿を消しただけよ」
文弘はさらに苛立ちを募らせたように舌打ちをする。
「そんなふうに逃げ回れば、離婚を白紙に戻せるとでも思っているのか? 絶対にあり得ない!」
私は文弘を愛おしげに見つめながら、腹の底で冷たく計算を巡らせていた。
もっと手を打たなければ。二人の離婚を、一日も早く成立させるために。
愛美の腹の中にいたガキについては……。
あの絨毯の血が、全てを物語っている。
間違いなく、流産したはずよね?
