第四章
愛美視点
目を覚ますと、真っ白な天井と、心配そうにこちらを覗き込む平野綾子の顔が視界に入った。
彼女は今にも泣き出しそうな顔をしている。
「愛美! やっと目が覚めたのね!」
昨夜の記憶がフラッシュバックする。下半身から絶え間なく血が流れ出し、痛みのあまり意識を失いそうになったあの光景。
私は手を伸ばしてスマホを取り、無意識のうちに高木文弘に電話をかけていた。
だが、彼は残酷にも私の着信を切ったのだ。
その後、私は綾子に助けを求めた。
ふと我に返り、慌てて自分のお腹に手を当てる。すさまじい恐怖が心臓を鷲掴みにした。
「綾子、私の子ども……無事なの?」
彼女の目から大粒の涙がこぼれ落ちた。
「赤ちゃんは今のところ無事よ。本当に、神様に感謝しなきゃ!」
「でもね、エコー検査で明らかな切迫流産の兆候が見られたの。愛美、あなた、もう少しでこの子を失うところだったのよ!」
その言葉は、鋭い銀の刃のように私の心を深くえぐった。
「愛美、昨日の夜いったい何があったの? 本当に死ぬほど心配したんだから!」
彼女は不安そうに問いかけてくる。
「それに、文弘さんはどうしたの? あなたがこんなに大量出血してるのに、アルファとして、そして子どもの父親として、あいつはどこで何をしてるっていうの?」
意識を失う直前、私を冷酷に突き放した文弘の姿と、南川茜から送られてきたあの写真の数々が脳裏をよぎる。
私はもう耐えきれず、声を上げて泣き崩れた。
「綾子……文弘が、私と離婚するって」
「はあ!?」
綾子は驚愕の声を上げた。
私は彼女に、これまでに起きた出来事をすべて打ち明けた。
「南川茜の奴、マジで厚顔無恥なクズ女じゃない!」
綾子は激しい怒りを露わにして罵る。
「文弘さんも文弘さんよ! 愛美、あなたはあいつの子を身ごもってるのよ? それなのに、他の女のために離婚するなんて! 頭おかしいんじゃないの!?」
スマホの画面を開くと、文弘からの着信履歴とメッセージが何件も溜まっていた。
確認する間もなく、彼からの着信音が鳴り響く。
『どこをほっつき歩いている!』
電話越しに、文弘の激怒した声が鼓膜を打った。
『屋敷に戻ったら、お前の姿がないじゃないか! 離婚したくないからって、わざと俺から逃げ回っているつもりか?』
彼が放つアルファの威圧感が電話越しにまで伝わってきて、私は本能的な震えを抑えられなかった。
『それに、ベッドと絨毯のあの血はなんだ!』
私はスマホを強く握り締め、それでも最後は嘘をつくことを選んだ。
「……生理が来たの。体調が良くなくて、病院で診てもらってる」
文弘は鼻で笑った。
『茜が病気だからって、お前まで仮病を使って俺の同情を引こうって魂胆か? 愛美、お前も随分と計算高くなったな』
あれほどの血溜まりを見ておきながら、彼はまだ私が仮病を使っていると信じて疑わないのだ。
心臓を力任せに握り潰されたような激痛が走り、息をするのも苦しかった。
その時、電話の向こうから甘ったるい女の声が聞こえてきた。
『文弘くん、愛美さんがゴールデンムーン邸にいないなら、私が引っ越してもいい?』
全身の血が一瞬にして凍りついた。
「ダメよ!」
私は思わず叫んだ。
「文弘、あそこは私達の家よ! その女を入れるなんて――」
『ごめんなさい、愛美さん。まだ文弘くんと離婚してないこと、うっかり忘れてて』
茜の声は、いかにも可哀想な被害者のように弱々しく変わる。
『あなたが嫌なら、引っ越しは諦めるわ。私なんて、このまま一人で苦しみながら死んでいけばいいんだから』
文弘は怒りに任せて私を責め立てた。
『愛美、前にも言ったはずだ。茜は病気なんだぞ。お前はどうしてそこまで性根が腐っているんだ?』
『それに、俺と結婚して一年経つのに、子ども一人身ごもれないお前が、あの屋敷に住む資格なんてあるのか?』
『一週間後、離婚協議書にサインする。それまでは二度と俺の前に顔を出すな!』
『それから、茜』
彼の声は一転して優しく温かいものになった。
『荷物をまとめて、明日から越してくるといい。俺がしっかり面倒を見るから』
ブツッという音と共に、電話は一方的に切られた。
暗くなった画面を呆然と見つめ、私は全身の力が抜けてへたり込んだ。
ゴールデンムーン邸。私がこの一年、心を込めて守ってきた家。
明日には、茜がそこへ入り込むのだ。
私の瞳からは光が失われ、ただ絶望だけが残っていた。
「どうしよう……綾子、私、もう本当に帰る場所がないかもしれない」
掠れた声で呟く。
文弘に嫁ぐ前、私は久保家の養女だった。
十年前、私はすべての記憶を失い、同時に自分の中の『狼』をも失った。
目を覚ました後、久保家に引き取られたものの、養父母からの扱いは決して良いものではなかった。
彼らが少しだけ優しく接してくれるようになったのは、私が文弘と結婚してからだ。
結婚後、文弘から渡されたお金はほぼすべて養父母に送っていた。ほんのわずかな、安っぽい家族の愛情を買い取るためだけに。
もし私が文弘と離婚すると知れば、彼らは間違いなく私を激しく罵倒するだろう。
ゴールデンムーン邸にも戻れず、久保家にも帰れない。
私は、これからどうすればいいのだろう。
綾子は私を力強く抱き締めてくれた。
「大丈夫よ、愛美。あなたには私がいるじゃない! 私のマンションに住めばいいわ!」
せき止めていた涙が再びあふれ出す。
「綾子……」
それから二日間、私は病院のベッドで過ごした。
お腹の赤ちゃんの状態が安定したのを見計らって、綾子が退院の手続きを済ませてくれた。
彼女のマンションは決して広くはなかったが、とても温かみのある部屋だった。
「愛美、まずはここで安心して暮らしなさい。余計なことは考えなくていいから、しっかりお腹の子を育てるのが一番大切よ」
その夜、私は綾子と同じベッドに入った。
暗闇の中で目を開けたまま、見慣れない天井を見つめる。頭の中は空っぽだった。
どれほどの時間が経ったのか分からない。気づけば、私は泥のように眠りに落ちていた。
エコー写真の束を握りしめ、私は文弘の前に立っていた。
「文弘、見て!」
期待に胸を膨らませ、震える声でその写真を彼に差し出す。
「私、妊娠したの。あなたの子よ」
だが、彼の顔に喜びの色は微塵も浮かばなかった。あるのは、刺すような激しい嫌悪だけ。
フン、と鼻で笑う。その笑い声は酷く冷酷で恐ろしかった。
「お前みたいな役立たずが、俺の子を身ごもるわけがないだろう?」
整った顔立ちが、怒りと憎悪で醜く歪んでいく。
次の瞬間、彼は腕を大きく振りかぶり、私を容赦なく床へと突き飛ばしたのだ。
後頭部を冷たいフローリングに強く打ちつけ、視界が激しく明滅する。
「文弘……」
自力で這い上がろうと身をよじった時、細いピンヒールが私の手の甲を容赦なく踏みつけ、力任せにぐりぐりと抉ってきた。
茜だった。
彼女は毒を含んだ声で見下ろす。
「愛美さん、忘れたの? 自分の狼すら持っていない欠陥品が、アルファの子を妊娠できるわけないじゃない」
「どうせ他の男と寝て作った子なんでしょう!」
「違う! そんなことない!」
私は必死に首を振り、彼らに訴えかけた。
「本当に、文弘の子なの!」
「黙れ!」
文弘が怒鳴り声を上げ、私の手首を乱暴に掴んで無理やり立たせた。
「愛美、お前を見ていると吐き気がする!」
「今すぐ病院へ連れて行って、そのガキを堕ろしてやる!」
私は狂ったように暴れ、彼の拘束から逃れようと必死でもがいた。
「お願い、信じて! 本当にあなたの子どもなの!」
揉み合いになったその最中――私の中腹が、テーブルの鋭い角に思い切り打ちつけられた。
「ああっ!」
目の前が真っ暗になるほどの激痛に襲われ、身体から力が抜け落ちてその場に崩れ落ちる。
茜の愉悦に満ちた笑い声が耳に響いた。
「これでよかったわね。わざわざ病院に行く手間が省けたわ」
床に広がる赤い血溜まりを見て、彼女は興奮したように言い放つ。
「あなたの子ども、もう死んじゃったみたい!」
――
「いやあっ!」
悲鳴を上げて目を覚ます。全身がびっしょりと冷や汗に塗れていた。
「愛美、どうしたの? 悪い夢でも見た?」
私の声に驚いて飛び起きた綾子が、慌てた様子で顔を覗き込んでくる。
部屋の明かりが点き、ほんの少しだけ暗闇が退いたものの、私の震えは一向に止まらなかった。
「文弘と茜が……私の子どもを殺そうとする夢を、見たの……」
綾子は怯える子どもをあやすかのように、私を優しく抱き締めてくれた。
「大丈夫よ、愛美。ただの悪夢だから。現実じゃないわ」
けれど、あの夢はまるで血塗られた予言のように、私の脳内で何度も何度も繰り返されていた。
絶対にダメだ。私が妊娠していることを、文弘に知られてはいけない。
もし知られたら、あの恐ろしい夢が間違いなく現実になってしまう。
夢の中と同じように、彼は冷酷にもこの子を殺しに来るだろう。
「綾子、私……決めたわ」
私は彼女の手をきゅっと強く握り締めた。
「あいつと離婚する。離婚したら、このパックを出て行くわ。あいつが二度と、私を見つけられない場所へ行くの!」
