第6章

愛美視点

 久保理沙は私に反論の余地すら与えず、一方的に電話を切った。

 スマホから無機質な電子音が響く。手足の先から急速に体温が奪われていくのが分かった。

 また、病院だ。

 久保理沙の目に映る私は、ただの壊れた道具に過ぎない。子供を身籠れない不良品だから、何度でも修理に出さなければならないのだ。

 だが今は、私が妊娠していることだけは、絶対に彼女に知られるわけにはいかなかった。

「綾子、彼女、明日私を病院に連れて行くって。どうやって誤魔化せばいい?」

「落ち着いて、愛美」

 平野綾子は私の手をぎゅっと握り締めた。

「明日は、私のいる病院に直接来るように伝えて」

 それでも、胸のざわつきは収まらない。

「久保理沙は馬鹿じゃないわ。検査結果が出れば、すべてバレてしまう」

「安心して。私が事前に手を回しておくから。彼女には何も気付かせない」

 翌日。私は平野綾子の手配通り、指定された時間より早く病院に到着した。

 平野綾子はこの日のためにシフトを調整し、個室の診察室で私を待っていてくれた。

「少し座って休んでいて」

 彼女は温かいお湯の入った紙コップを私に手渡すと、足早に部屋を出て行った。

 一人残された診察室。緊張で手のひらにじっとりとした汗が滲む。壁の時計を何度も見上げては、針の進みを確認した。

 それから間もなくして、バンッ、と勢いよく診察室のドアが開け放たれた。

 コツカツと高いヒールの音を響かせながら、久保理沙が足を踏み入れる。

「いつまで座っているの? さっさと検査に行きなさい!」

 私は必死に平静を装った。

「焦らないでください。綾子が先ほど検査をしてくれたので、結果はもうすぐ出ます」

 久保理沙は胡散臭そうに目を細めた。

「そう? あなたと綾子が仲良しなのは知っているけれど、こんな大事なことで私を誤魔化そうなんて思わないことね」

「久保さん、愛美の検査結果が出ましたよ」

 そこへ平野綾子が戻ってきて、張り詰めた空気を断ち切った。

 久保理沙は彼女の手から報告書をひったくり、何度も目を走らせる。だが、その眉間の皺は深くなるばかりだった。

「おかしいわね。数値はすべて正常で、何の問題もないじゃない」

 彼女の口調に、さらに不満の色が混じる。

「何の問題もないのに、どうしていつまで経っても妊娠しないの!」

 平野綾子がすかさず助け舟を出した。

「妊娠にはタイミングも重要ですから。焦りは禁物です」

 私も慌てて同調する。

「綾子の言う通りです。お義母さん、外には他の患者さんも待っていますし、そろそろ行きましょう」

 久保理沙は忌々しげに私を睨みつけると、踵を返して診察室を出て行った。

 私はふうっと長く息を吐き出し、平野綾子に感謝の視線を送る。

 だが、診察室を出た直後だった。

 どこからともなく大勢の人々が押し寄せ、瞬く間に廊下を埋め尽くしてしまった。

「急げ! あっちだ! 高木文弘氏と南川さんがいるぞ!」

 状況を呑み込む間もなく、私は人の波に押され、あっという間に久保理沙とはぐれてしまった。

 その時。

 廊下の突き当たりにあるVIP診察室の前に、私の心臓を凍りつかせる姿があった。

 高木文弘。

 ダークトーンのシャツを纏ったその長身は、人混みの中でも一際目を引く。

 南川茜は帽子を深く被り、マスク越しにも分かるほど青白い顔で、彼の胸にすがりつくように寄りかかっていた。

 二人の周囲には無数の記者が群がり、フラッシュの眩い光が絶え間なく瞬いている。

 やがてVIP診察室の扉が開き、白衣姿の医師が重苦しい面持ちで姿を現した。

 記者達は一斉にマイクとカメラを突きつける。

「先生! 南川さんの病状はいかがですか!」

「彼女は助かるんでしょうか!」

 医師はゆっくりとマスクを外し、深い溜め息を吐いた。その声には、隠しきれない無念さが滲んでいる。

「非常に残念ですが、南川さんの銀毒症はすでに末期です。現在の医学では、我々にできることはもうありません」

 その一言は、群衆の中に爆弾を落としたかのような衝撃をもたらした。

「まだあんなに若いのに、可哀想に……」

 宣告を聞いた南川茜は激しく身を震わせ、頬を伝う涙を隠そうともしなかった。

「先生、分かりました。もう治療は望みません。せめて残された日々を少しでも穏やかに過ごせるよう、鎮痛剤だけ処方してください」

 弱り切った、絶望に満ちたその声に、周囲の人々も次々と目頭を熱くする。

「南川さん、あまりにも不憫すぎる!」

「あんなに優しい子が、どうしてこんな苦しみを味わわなきゃならないんだ!」

 高木文弘は南川茜を強く抱き寄せた。その瞳に浮かんでいるのは、痛切な悲しみと深い自責の念。

「茜、諦めるな。俺が世界中から腕利きの医者を探し出して、必ずお前を治してみせる」

「ありがとう、文弘」

 南川茜は彼の肩に顔を埋めた。

「命の最後の時間を、あなたがそばにいてくれるだけで……私、もう十分に幸せよ」

 心臓を、見えない巨大な手に鷲掴みにされたような感覚。

 私の夫が、他の女をあんなにも優しく抱きしめ、慰めている。

 その時だった。

 一人の記者のレンズが、唐突に私を捉えた。

「待て! あんた……愛美か?」

 カメラを構えた記者が、半信半疑の声を上げる。

「見覚えがあるぞ! 高木文弘氏の妻じゃないか!」

 全身が硬直した。体中の血液が瞬時に凍りつく。

「愛美ってなんだ? 高木文弘の妻だと!?」

 群がる記者達のカメラが一斉に向きを変え、無数のレンズが私に向けられた。

 高木文弘の視線もまた、人混みを縫って私を鋭く射抜いた。

「愛美さん、ネットのニュースを見て、わざわざ病院に駆けつけたんですか!」

 女性記者が、マイクを私の顔に乱暴に突きつけてくる。

「自分の夫が他の女性と抱き合っているのを見て、どうお考えですか! 南川さんに嫉妬していますか!」

 別の記者が間髪入れず畳み掛ける。

「我々の調べでは、高木文弘氏と結婚して一年になるにもかかわらず、彼が公の場であなたをルナとして認めたことは一度もありません。これは事実ですか!」

「あなたが子供を身籠れないから、高木文弘氏はあなたを拒絶しているのではないですか!」

「あなたには狼の血すら流れていないという噂もあります。自分自身がアルファに相応しいと思いますか!」

 容赦のない質問の刃が、私の心臓を次々と抉っていく。

 顔から血の気が失せるのを感じながら、私は両手をきつく握り締めた。爪が手のひらに深く食い込み、鈍い痛みを放つ。

「高木愛美!」

 高木文弘が突然、怒りと警告に満ちた声を張り上げた。

「茜は病気なんだぞ!」

 その意図は痛いほど明らかだった。これ以上、南川茜を不快にさせるなという威圧。

 私が押し黙っているのを見て、彼の声はさらに険しさを増した。

「高木愛美!」

 南川茜が顔を上げ、涙に濡れた瞳で私を見つめた。

「ごめんなさい、愛美さん。文弘はただの友達なの。今日、あなたが病院に来るなんて思わなくて……」

 その弱々しくも庇護欲をそそる声は、まるで私の方が二人の愛を引き裂く悪者であるかのように響いた。

 周囲の野次馬から、ヒソヒソと心ない声が漏れ聞こえてくる。

「あの中途半端な女が、本当に高木文弘の妻なのか?」

「信じられない。南川さんは死にかけてるのに、あんなふうに冷たく睨みつけるなんて!」

「高木文弘は友達の付き添いで来ただけだろう? 何をそんなに嫉妬してカリカリしているんだか」

 私は肺の奥まで息を吸い込み、どうにか平静な声を絞り出した。

「私はただ、自分の検査のために病院に来ただけです。他意はありません」

 一秒でも早く、この息の詰まる場所から逃げ出したかった。

 だが記者達は私を逃がそうとはせず、まるで飢えた獣のように群がり、行く手を完全に塞いだ。

「愛美さん、待ってください!」

「現在、ネット上ではあなたと高木文弘氏の離婚を望み、南川さんこそがルナに相応しいという声が多数上がっています。これについてどう思われますか!」

「高木愛美、南川さんはもう長くないんですよ! 愛する人と共に過ごす権利すらないとでも言うんですか!」

「わざと病院に現れて、南川さんを刺激するつもりだったんじゃないですか!」

 その時、群衆の誰かが突然、私の肩を乱暴に突き飛ばした。

 あっという間にバランスを崩し、身体が前方へ大きく傾く。

 冷たい床に倒れ込むその刹那――私の身体は反射的に、自分のお腹を両腕で死に物狂いに庇っていた。

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