第7章

高木愛美視点

 ドンッ、と鈍い音を立てて冷たい床に叩きつけられた。

 無数のカメラのレンズが私に向けられ、瞬くフラッシュの暴力に目が眩む。

 私は無意識に、高木文弘の方へ視線をさまよわせた。

 彼を見上げるその視線に、しかし何の温もりも返ってこない。ただ背筋が凍るほど冷酷な瞳が私を見下ろしているだけで、そこには欠片ほどの心配も、罪悪感すらも存在しなかった。

 彼が何を望んでいるのか、私には痛いほど分かっていた。

 この記者達の面前で、すべては誤解だと私自身の口から釈明させたいのだ。自分は南川茜と不倫などしていない、彼女は泥棒猫なんかじゃない。ただ病に倒れ、友人の支えを必要としているだけなのだと。

 私という妻が、勝手な嫉妬に狂い、理不尽に騒ぎ立てる悪毒な女なのだと、大衆の面前で認めさせたいのだ。

 そうすれば、彼は何の非難も浴びることなく、堂々と南川茜のそばにいられるから。

 私はゆっくりと立ち上がり、深く息を吸い込んだ。そして、自分でも驚くほど平坦な声で口を開く。

「南川茜さんのご病状については、心より同情申し上げます」

 その言葉に、高木文弘の険しい目つきがわずかに和らいだ。南川茜の口元にも、勝ち誇ったような笑みが浮かぶ。

 だが次の瞬間、記者から飛んできた質問が、私の腹を完全に括らせた。

「では、奥様と南川さんはご友人という認識でよろしいのでしょうか?」

 私は高木文弘を真っ直ぐに見据え、ふっと鼻で笑った。

「どうして私が、家庭を壊した泥棒猫と友達にならなければいけないの?」

 一瞬にして、その場の空気が凍りついた。

 フラッシュの嵐が止み、全員が息を呑んで私を凝視する。高木文弘でさえも、驚愕に目を見開いていた。

 構わず、私は言葉を続ける。

「南川茜さんの介入により、私は間もなく高木文弘と離婚する予定です」

「高木愛美!」

 青筋を立てた高木文弘が、怒声と共に怒りを爆発させる。

 南川茜も血の気を失い、今にもその場に倒れ込みそうなほど劇的に身体を震わせ始めた。

 私は手のひらに爪を食い込ませる。その鋭い痛みが、かろうじて私の理性を繋ぎ止めていた。

 そのまま残りの全精力を振り絞り、群がる記者達を押し退けてその場を後にする。

 この滑稽で惨めな結婚生活に、私自身の手で終止符を打つために。

    *

 逃げるように病院を後にした私は、その足で真っ直ぐ平野綾子のマンションへと向かった。

 玄関のドアを閉めた途端、全身から糸が切れたように力が抜け、その場にへたり込む。

 ポケットの中で、スマートフォンが狂ったように震え始めた。

 画面には久保理沙の名前。

 私は震える指先で、何度も何度も着信拒否のボタンを押し続ける。

 すぐに、彼女からメッセージが弾き出された。

『ちょっと! 高木愛美、あんた頭おかしくなったの!?』

『高木文弘と離婚するなんて、どういうつもりよ!』

 今さら彼女にどう説明すればいいのか、少しも分からなかった。

 私と高木文弘の夫婦関係が破綻しかけていることは、すでに久保理沙の耳にも入っている。

 彼女のあの性格だ。まともに相手をすれば、天地がひっくり返るほどの大騒ぎになるのは目に見えていた。

 私は一切の衝突から逃げるように、スマホの電源を容赦なく落とした。

    *

 夜になり、平野綾子がくたくたに疲弊した様子でマンションに帰ってきた。

 彼女は玄関を抜けるなり、リビングのソファへ倒れ込むように身を投げる。

「もう、腹立って仕方ないわ! 病院中があのハイエナみたいな記者達でごった返して、こっちの通常業務まで大迷惑よ!」

「南川茜って女、マジで疫病神じゃないの!」

 私はグラスに水を注ぎ、彼女の隣に腰を下ろしてそれを差し出す。

 平野綾子は一気に水を飲み干すと、ふと何かを思い出したように顔つきを険しくした。

「そうだ! 高木愛美、今日の午後ね、南川茜がうちの産婦人科に来たのよ」

 心臓がドクンと大きく跳ねた。

「産婦人科に? どうして彼女が……」

「あんたの探りを入れてきたのよ」

 平野綾子の声が一段と低くなる。

「私とあんたが友達だってこと、あの女は知らないみたいでね。手を変え品を変え、あんたが妊娠しているかどうか、しつこく聞き出そうとしてきたわ」

 私は思わず彼女の手をきつく握りしめる。

「綾子、なんて答えたの?」

「当然、何も言うわけないでしょ!」

 平野綾子は力強く断言するが、すぐにその眉根を寄せた。

「でもね、愛美。あの女、あんたが妊娠してるってこと、もうほとんど確信してるみたいだったわよ」

 底知れぬ恐怖が一瞬にして私を呑み込み、呼吸すら浅くなっていく。

「どうして……南川茜が私の妊娠を……?」

 震える唇で呟いた直後、頭の中に最悪の可能性が閃いた。

 ――まさか!

 屋敷の自室、そのベッドの枕の下に隠しておいたエコー写真。

 私は慌ててスマホの電源を入れ、本邸のメイドに電話をかけた。

『奥様、いかがなさいましたか?』

 電話口のメイドの声に、私は震えを抑えきれない声で問い詰める。

「今、私の部屋を使っているのは誰?」

『……南川様でございます』

 メイドは申し訳なさそうに答えた。

『旦那様からのご命令で、あちらの部屋でご静養いただくようにと』

 心臓が、冷たい氷の底へ沈んでいくようだった。

「お願い、一つ頼まれてくれない? 枕の下に大切な書類を挟んだままなの。探してみてほしいのだけれど」

 その後、メイドは食事を運ぶふりをして私の部屋へ入ってくれた。

 そしてすぐに、折り返しの電話が鳴る。

『申し訳ございません、奥様。枕の下には、何も……』

 通話を切った瞬間、全身の血の気が引き、指先から力が抜け落ちた。

「愛美、どうしたの?」

 平野綾子が不安げに私の顔を覗き込む。

「エコー写真……南川茜に、持っていかれたみたい」

 平野綾子はヒッと短く息を呑んだ。

「嘘でしょ!?」

「高木文弘は、まだ私の妊娠を知らないはずよ」

 自分に言い聞かせるように、私はぽつりとこぼした。

「南川茜は私達を離婚させたいんだから、彼にこのことを教えるわけがないわ」

 そうだとしても、胸の奥に巣食う得体の知れない不安は拭い去れなかった。

 ただひたすらに、あの男との離婚が成立する日を祈り続けるしかない。

 離婚さえできれば。そうすれば、私はすべてを捨てて、誰も私を知らない場所へ逃げられるのだから。

    *

 翌朝、まだ浅い眠りの中にいた私は、平野綾子の鋭い声で強引に引き剥がされた。

「高木愛美、起きて! ちょっと窓の外見て、あれ高木文弘の車じゃない!?」

 私は弾かれたように起き上がり、窓際へ駆け寄る。

 見下ろした先、マンションのエントランス前には、見慣れた高木文弘の黒いベントレーが威圧的に停まっていた。

 一晩中電源を切っていたスマホを急いで立ち上げる。

 直後、画面を埋め尽くすほどの不在着信とメッセージ通知が、滝のように雪崩れ込んできた。

 久保理沙からのもの、そして高木文弘からのもの。

 その最中、耳を劈くような着信音が鳴り響き、画面に『高木文弘』の文字が浮かび上がる。

 恐る恐る通話ボタンを押した瞬間、鼓膜を震わせるほどの怒声が飛び込んできた。

『どうして今まで電話に出なかった! 今すぐ降りてこい! 今すぐだ!』

 私はスマホを握りしめ、しばらくの葛藤の末に、腹を決めて階下へと降りた。

 車のドアを開けた瞬間、高木文弘は鼻で笑い、虫けらでも見るような軽蔑の眼差しを私に向けた。

「俺も随分とお前を甘く見ていたらしい。まさかこれほど陰湿で、計算高いクズ女だったとはな」

「昨日、病院に群がっていたあの記者共。お前がわざと差し向けたんだろうが」

 私は信じられない思いで目を丸くした。

「高木文弘、そんなことするわけないでしょう!」

「嘘をつくな、高木愛美!」

 彼は地を這うような低い声で吠える。

「お前じゃなきゃ、他に誰がいるって言うんだ!」

 私は冷たく唇の端を吊り上げた。

「誰が仕組んだか知りたいなら、あなたの愛しい南川茜にでも聞いてみればいいじゃない」

 私の鼻で笑うような態度が、彼の逆鱗に触れたらしい。

 常軌を逸した強い力で、私の手首が乱暴に掴み上げられた。

「愛美、俺は何度も言っているはずだ。彼女は病気なんだ。それに、彼女はお前みたいな薄汚い女とは違う!」

 手首に食い込む痛みに耐えながら、私は彼に弁明する気力を完全に失っていた。

 ただ一刻も早く、この息の詰まる車内から逃げ出したかった。

「病院での一件を、おばあちゃんに告げ口したのもお前だろう?」

 彼は畳み掛けるように私を問い詰める。

「そんな小細工で、俺の離婚の意思が揺らぐとでも思ったか?」

 松井美玲――高木文弘の祖母。高木の祖父が他界して以来、あの冷たい一族の中で唯一、私に心からの愛情を注いでくれる人だった。

「違うわ!」

 私は即座に否定した。

「私がそんなことで、おばあちゃんを煩わせるわけないでしょう!」

 頭の片隅に、久保理沙の顔がよぎった。きっと彼女が言いふらしたに違いない。

 高木文弘は氷のように冷え切った声で吐き捨てる。

「いいだろう、もう一度だけ信じてやる。だが、これが最後だ」

 彼は私の手首を乱暴に振り払った。

「おばあちゃんが、一緒に荘園で食事をしようと言っている。よく覚えておけ、愛美。口の利き方には気をつけろ。余計なことは、一言たりとも口に出すな」

 車はそのまま、松井美玲の暮らす荘園へと滑り込んだ。

 玄関を抜けると、すでにリビングのソファで彼女が私達の到着を待っていた。

 広々としたダイニングテーブルには、使用人達が腕によりをかけた豪勢な料理が並べられている。

 席に着いた途端、こってりとした牛ステーキの脂の匂いが鼻腔を突いた。

 瞬間、胃の底から強烈な吐き気が込み上げてくる。

 私はさっと顔面を蒼白にさせ、反射的に両手で口元をきつく覆った。

「愛美さん、どうしたの? 顔色がひどく悪いけれど……」

 松井美玲が心配そうに身を乗り出す。

 私は必死に首を横に振った。

「平気です、おばあちゃん……ただ、少し気分が優れないだけで……」

 その様子を見た松井美玲は、一瞬きょとんとした後、パッと顔を輝かせて期待に満ちた声を上げた。

「愛美さん、あなた……もしかして、ご懐妊なさったの?」

 その瞬間。

 高木文弘が弾かれたように顔を上げ、射抜くような鋭い視線で私を睨みつけた。

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