第3章

映像の中で、赤いバイクが鮮やかなドリフトを決め、突っ込んできた護衛4人をまとめて弾き飛ばした。

停止した刹那、女は猫みたいに身軽に跳ねる。片手でバイクのフロントに体を預けたまま、長い脚をしなやかに振り抜き、連続の蹴りで美しい軌跡を描く――3人が一瞬で沈んだ。

女は護衛の胸元に付いたカメラに気づいたらしい。襟首を掴んで無理やり引き起こすと、革手袋のままレンズへ向けて国際的に友好的なジェスチャーを突きつけ、次の瞬間、拳でカメラを叩き割った。

最後に残った音声は、護衛の悲鳴と、遠ざかっていくエンジンの轟音だけ。

雪嵐みたいなノイズが舞うモニターの前で、鈴木青はごくりと唾を飲み込んだ。

……医者?

長川様が自ら選んだ護衛より強いって、どういうことだ。

見当違いじゃないのか。

「調べろ。あいつがユキかどうか」

長川貞也の声は氷を纏っていた。なのに脳裏を占めるのは、さっきの映像に映った、細く玲瓏としたあのシルエットばかり。

なぜだか――1か月前、あの夜の女が重なる。

あのとき確かに意識は朦朧としていた。だが眠りに落ちる直前、ほんの一瞬だけ冴えたのを覚えている。

去っていく背中。あの女も、あんなふうに綺麗な脚をしていた。

5分も経たないうちに、鈴木青は最新の顔面シミュレーションでライダーの顔を復元した。拡大された五官を見た瞬間、ふっと若奥さまの面影がよぎる。

だが、すぐに首を振った。

若奥さまがユキ様なわけがない。

「長川様、全市で捜索を?」

鈴木青はノートPCを長川貞也へ向ける。

長川貞也は元々、顔立ちなど気にしていなかった。淡々と視線を走らせただけ――のはずが、次の瞬間、珍しく目が止まった。

冷艶。

攻撃的な美しさ。顔に『好き勝手に生きてる』と書いてある。

面白い。もし彼女が神医者なら、俺は自分が彼女を怒らせた覚えはない。それなのに、なぜ一方的にブラックリストに?

怒りが胸の奥からせり上がり、目の冷えが深くなる。

そのとき、天道医院の電子ゲートが、ゆっくりと開いた。

綾波東也が悠然と姿を見せる。門枠にもたれ、気だるげに長川貞也へ声を投げた。

「長川様。奇遇だね、散歩?」

「いやぁ、長川様はさすがだ。散歩に護衛がぞろぞろ。知らない人が見たら、俺のちっちゃい病院を攻めに来たのかと思うよ」

露骨な皮肉に、長川貞也の暴気が跳ね上がる。黒く沈んだ瞳で相手を射抜き、冷えた声で問う。

「さっきのバイクはユキか」

綾波東也は口を尖らせ、邪気のある笑みを浮かべる。だが一歩も退かない鋭さが、視線の奥に宿っていた。

「ユキ様のルールだ。受けるかどうかは本人が決める。誰にも強制できない」

「とはいえ長川様は別格だよな。G市で足踏みゃ地震が起きる大物。俺も恨まれたくないしさ。ユキ様が言ってたよ。長川様が入りたいなら入れ、探したいなら探せ――ただし、その大騒ぎは記者にきっちり撮らせろ。長川様の覇権の威光を示すためにな」

鈴木青が思わず小声で進言する。

「長川様、強行すれば神医者を怒らせかねません。坊ちゃんの病状にも……」

長川貞也は背筋を張ったまま、殺気だけをゆっくり引っ込めた。

「全員下がれ。お前も戻れ」

鈴木青は目を見開き、声を落としながらも焦りを滲ませる。

「長川様、危険が――お側に人が必要です」

長川貞也は譲らない。低く、冷たく、断ち切るように言った。

「医者に頭を下げに来た。俺一人で十分だ。撤収しろ」

鈴木青は性格を知っている。決めたら変わらない。

歯噛みしつつ車へ戻り、やがてその場を離れた。

綾波東也は、松みたいに真っ直ぐ立つ長川貞也を見て、心底うんざりした。

……不調なら泌尿器科に行けよ。

ユキに固執するほどの難病か?

追い返す勇気もなく、苛立ちながら病院へ引き返す。電子ゲートが閉まり、外の空気が遮断された。

橋野悠希は住居へ戻ったばかりで、これからゆっくり風呂に浸かろうとしていた。そこへ綾波東也から電話が入る。

彼女は笑いながら通話を取る。言葉を返しつつ、服を脱いでいく。

ライダースーツが床へ落ち、息を呑むほどの肢体が露わになった。

白磁みたいな肌は透けるようで、完璧な比率が脚の艶をいっそう際立たせる。

「G市一だって豪語してたのに、もう限界?」

綾波東也は盛大に白目を剥いた。

「煽るな。喧嘩になってねぇよ。長川貞也、今回は本気でお前に会うつもりだ。散々皮肉ってもキレずに、護衛まで下げた」

「今も一人で外に突っ立ってる。あいつの性格だと、お前が出てこない限り帰らねぇ。どうする?」

橋野悠希は浴槽へ沈み、ふう、と心地よさそうに息を吐いた。

「放っときなさい。私はあんな病気、治さない。夜中に実験結果を見に戻る。用がないなら切る」

通話を切ると、野次馬根性で病院の監視カメラをスマホから開いた。

夕陽に引き伸ばされた長川貞也の影。背筋は相変わらず真っ直ぐで、揺らぎがない。

冷酷、非情、決断が速い――そんな噂の男。

22歳で世界名門の博士号を二つ取り、帰国後に長川グループを掌握。5年も経たずに企業価値を何十倍にもした天才。

そんな男が、欲望に溺れて自分を壊し、役立たずになった?

橋野悠希は鼻で笑った。

因果応報。

「これからどうやって渣をやるつもり?」

スマホを閉じて放り投げ、そのまま気にせず過ごした。

午前1時半。

耳障りなアラームが、眠りの底の橋野悠希を叩き起こす。

彼女は跳ね起き、頭を揉んだ。最悪の気分。

また夢を見た。

初めてを奪った男。あの羞恥の場面まで、鮮明に――。

「クソ……見つけたら殺す」

怒りで胸が上下し、同時に吐き気がこみ上げる。

妊娠のことは、意識して考えないようにしていた。どうするか、まだ決めていない。

彼女は医師だ。祖父の教えで、命への敬意は誰より強い。

それに幼い頃から親の愛に飢えてきた。血の繋がった小さな命を、冷たく切り捨てることが――今はできない。

自分に2本、注射して症状を抑えると、すぐ外へ出た。

毒理の実験結果は今夜出る。彼女にとって重要だ。

初秋の夜風は冷たい。

バイクではなく、綾波東也が置いていったスーパーカーに乗り換え、天道医院の近くまで来た瞬間――激しい殴り合いの音が耳に刺さった。

橋野悠希は即座に停車し、ライトを落とす。監視映像を呼び出すと、黒装束の集団が鉈を振り回し、長川貞也を囲んでいた。

長川貞也は強い。だが多勢に無勢。肩に一太刀――傷の深さからして……。

橋野悠希は眉をひそめた。血の色が黒い。

「毒か。こいつ、病院の前で死ぬ気?」

天道医院はニュースになってきたが、「死人が出た」で話題になったことはない。

「クソ……場所選びだけは一流ね」

吐き捨て、エンジンをかける。幌を開け、一気に踏み込んだ。

スーパーカーの良さがわかる。

速度、圧、支配力――全部が桁違い。

爆音が襲撃者の動きを乱す。橋野悠希は鋭く切り返し、長川貞也の前で急停止。

長川貞也は片手で地面を押し、身を翻して助手席へ飛び乗った。

車は剣魚のように走り、角を曲がって地下通路へ。難なく病院へ入る。

「……お前がユキか?」

長川貞也は疑いの目を向ける。目の前の女は冷艶で、鈴木青が合成した顔とほとんど同じだった。

「そうじゃなきゃ、今夜ここで死んでたわね」

橋野悠希はこれ以上関わりたくない。だが病院の近くで殺人沙汰は困る。

世論が押し寄せ、病院に影響が出る。

仕方なく助けただけだ。

今は長川貞也を椅子に押さえつけ、乱暴に解毒処置をしている。

長川貞也は、彼女の眉間の皺と隠しもしない嫌悪を見て、疑念が深まった。

面識はないはずだ。なぜここまで敵意が?

「なぜ天道ネットで俺をブラックリストにした。……以前、何かあったのか」

橋野悠希は鉗子でぐっと刺す。長川貞也が堪えた呻きを漏らすのを聞き、薄く笑った。

「天道ネットは難病を救うためのもの。クズ男の病気は対象外よ」

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