第6章

橋野悠希は、長川貞也が自分を値踏みするように見ているのを目の端で捉え、露骨に眉をひそめた。

――とはいえ、今は相手をしている余裕もない。

意識を切り替え、脈に神経を集中させる。しばらくして指を離すと、胸の奥がわずかに沈んだ。

長川涼の病状は、想像していた以上に厄介だ。

「治療室へ運んで」

言い捨てるように告げ、悠希は先に立って奥へ入る。長川貞也には冷たい視線ひとつすらくれてやらない。

治療室は診察室の内側に設けられており、機器も器具も一通り揃っていた。

ここで、涼がどこまで耐えられるか――限界を見極める必要がある。

小さな身体がベッドに寝かされる。

照明の下で顔色はさらに白く見え、呼吸も次第に浅く速くなっていった。

涼は反射的に身をよじろうとする。だが、悠希が短い腕をそっと押さえた。

妊娠のせいだろうか。悠希の胸の奥に、言いようのない憐れみが灯る。

眼差しはやわらかく、声も珍しく温い。

「動かないで。すぐ終わるから」

そして、子どもに言い聞かせるように続けた。

「あなたは一番勇敢な男の子よ。きっとできる」

涼はぱちぱちと瞬きをしてから、こくん、と大きく頷いた。

平気なふりをしようとするが、年齢が年齢だ。恐怖を押し殺すように唇をきゅっと噛む。

長川貞也は思わずその様子を見た。

光と影が女の横顔を縁取り、輪郭だけがぼんやりと浮かぶ。その瞬間、またしても胸の奥に「知っている」という感覚が刺さる。

――ぼんやりしていたところへ、鋭い視線が飛んできた。

「出て」

長川貞也は言葉に詰まり、さっきまでの妙な余韻が一気に霧散した。

なぜ、こいつは俺にだけ――仇を見るみたいに冷たく、刺々しい。

立ち尽くす彼に、悠希は氷の刃みたいな目を向ける。

「ここは私の場所。私のルールに従って。施術中、第三者の立ち会いは禁止」

長川貞也の癇癪が腹の底で暴れ回り、顔色が炭みたいに黒くなる。

歯の隙間から絞り出すように言った。

「……悪かったな。そんなルール、知らなかった」

「今、知ったでしょ」

悠希はまぶたをわずかに上げ、冷えた視線で一度だけ彼を切り捨てると、すぐ涼へ向き直った。もう二度と、貞也を見ない。

長川貞也は重い足を引きずるように治療室を出た。

墨を流したような瞳の奥で、怒りだけがぎりぎりまで圧縮されている。

外へ出るなり、苛立ちを逃がすように壁を蹴った。

「……クソが」

低い唸り声。

頭に浮かぶのは、あの女に追い払われた屈辱の場面ばかりだ。

まるで――犬でも追い払うみたいに。

治療室の中で、悠希の手つきは慎重そのものだった。

こんな小さな子に鍼を打つこと自体、気が進まない。最小限の本数に抑えても、時間はどうしてもかかる。

初回の施術。なおさら、慎重に慎重を重ねる。

二歳の身体は病に削られ、ぎりぎりで持ちこたえている。些細な負担が致命傷になりかねない。

それでも涼は驚くほどよく我慢し、指示にもきちんと従った。

三十分後。

悠希は最後の銀鍼をすっと抜き取る。

「……終わり」

その声を合図に、長川貞也が入ってくる。空気がひやりと揺れた。

涼はすでに深く眠っていた。

先ほどまでの青白さは薄れ、小さな頬には血色が戻っている。

――一度の鍼で、ここまで変わるのか。

貞也の胸に二年も居座っていた巨石が、ようやく落ちた。

眉間に張り付いていた陰りもほどけ、整った顔立ちが一段と際立つ。

悠希を見る目も、さっきまでの殺気を含んだ怒りから、わずかに和らいだ色へ変わる。

だが、それでもなお――この女の敵意だけは理解できない。

口を開こうとした瞬間、悠希が手を上げて制した。

警告の眼差し。外へ出ろ、という合図。

二人が治療室を出ると、鈴木美由紀がすぐに駆け寄り、また長川貞也の腕に絡みつく。

「貞也、遅いよ。ずっと待ってて、すごく焦った」

悠希はその馴れ合いを冷えた目で眺め、口元に薄い嘲りを刻む。

「そんなに焦ってたのに、子どもの容体は一言も聞かないのね」

鈴木美由紀の表情が揺れた。

「わ、私は……今聞こうとしたのに、あなたが遮ったんじゃない」

ソファでゲームをしていた綾波東也が、鼻で笑う。

「焦ってたよな。髪いじって鏡見て、口紅まで塗り直してたし」

鈴木美由紀の顔が赤くなったり青くなったりする。

泣きそうな目で長川貞也を見上げた。

「貞也、私……涼が最初に私を見たとき、元気そうって思ってほしかっただけなの」

長川貞也は苛立ちを隠さず、腕をさっと引き抜いた。

そして深い眼差しを悠希へ向ける。

「涼の状態はどうだ。完治まで、どれくらいかかる」

悠希は表情を崩さない。声も凍るほど淡々としている。

「鍼と投薬の併用。週3回。3か月で完治できる」

「今後は毎週、月水金の午前10時に連れてきて。施術後に10分休ませれば帰っていい。全部で1時間」

言い終えると、悠希は彼らを冷たく一瞥し、研究室へ戻ろうとした。

月水金は平日で、しかも10時は一番忙しい時間帯だ。涼もまだ小さい。誰かに任せるわけにもいかない。

長川貞也は眉を寄せる。

「時間を前後できないか」

悠希は眉を上げた。

妖艶な顔に、露骨な不快感が差す。

「長川様は、週7日いつでも呼べば来いって意味?」

これでも慈悲で、クズ男の息子を診てやっているだけだ。

天道医院の再始動でやることは山ほどある。無駄に付き合う暇はない。

長川貞也の顔色が青紫に揺れた。

協議したいだけなのに、明らかにこの女は自分にだけ刺を向けてくる。

ここまで露骨に軽んじられたことなど、今まで一度もない。

怒りで爆発して叩き潰したい――だが、それができない。

涼を救えるのは、ユキ様だけ。

貞也は燃え上がる怒りを喉の奥へ押し込み、低く答えた。

「……わかった。月水金の10時。必ず来る」

鈴木美由紀は、二人の間に散る火花を見て、自分だけが蚊帳の外に置かれた気分になった。

妬みが一気に噴き上がる。

「貞也、ユキ様って、いつも治療は1か月以内って聞いたのに。どうして私たちは3か月なの? 相手を見て変えてるとか、別の目的があるんじゃ……」

空気が、ぴしりと凍りついた。

綾波東也はゲームを止め、スマホをテーブルへ放る。ガン、と鈍い音が響く。

細い目を細め、笑っているのに笑っていない顔で鈴木美由紀を見た。

鈴木美由紀は怯えたふりをして、長川貞也の背に隠れる。

「貞也……みんな、怖い」

悠希は紅い唇を吊り上げ、双眸を刃のように尖らせた。嘲りが滲む。

「治したくないなら、愛人連れて出ていって。診療費は返さない」

鈴木美由紀は内心で勝ちを確信し、怒りと委屈を混ぜて甘えるように言った。

「貞也、態度がひどすぎる。治療の途中で、あとから法外な金額を吹っかけられるかもしれないし……こんな女に脅される必要ないよ」

言い切る前に、長川貞也の冷たい声が落ちた。

「謝れ」

鈴木美由紀は固まる。

「貞也、あなた……」

長川貞也の黒い瞳には、もう温度がなかった。

「二度言わせるな。涼を生かしたいなら、口の利き方に気をつけろ」

鈴木美由紀は悔しさで顔を真っ赤にする。

――どうして。

長川川人が死んでから、病気の涼を献身的に世話してきた。貞也もそれに感謝して、ずっと優しくしてくれていたのに。

それが、ユキという女のせいで――初めて崩れた。

初回でこれなら、三か月も通えば……。

この女、私の男を誑かす気だ。

鈴木美由紀は拳をきつく握りしめ、腹の底で憎悪を煮立たせながらも、逆らえずに俯いた。

涙を溜め、震える声で言う。

「……貞也、ごめんなさい。怒らないで」

「謝る相手は俺じゃない」

長川貞也は冷えた顔のまま、きっぱりと言い放つ。

綾波東也が、ふっと嗤った。

「うちのユキ様が、こんな言いがかり受けるの初めてなんだわ。長川様、謝罪で終わりにできると思ってる?」

瞳がすっと沈み、声も冷たくなる。

「誰か来い。この臭いブスを放り出せ。二度と天道を跨がせるな」

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