第7章
ほどなくして外から黒服のボディガードが二人、どたどたと駆け込んできた。彼らは鈴木美由紀を死んだ犬でも扱うみたいに引きずり、大門の外へ放り投げる。
途中でヒールが片方、ぽーんと飛んだ。けれどボディガードは「邪魔だ」とでも言いたげに、嫌そうに一蹴り。靴はどこかへ消えた。
綾波東也は胸のつかえがすっと抜けた顔で、鼻歌まじりにコーヒーを淹れに走る。悠希ちゃんの鬱憤を晴らすために。
長川貞也の顔色は底なしに暗い。だが、止めはしなかった。
鈴木美由紀がユキを怒らせれば、長川涼の命が危うくなる。
長川涼の命に比べれば、鈴木美由紀など塵みたいなものだ。
「今後の診察は、俺が子どもだけ連れて来る」
橋野悠希は少し目を見開いた。
綾波東也が長川貞也の目の前で、彼の「心の女」を叩き出したのだ。外の噂どおりの暴虐な気性なら、簡単に飲み込めるはずがない。
それなのに、怒りを噴き上げるどころか、向こうから譲歩してきた。
――この子は、本当に大事なんだ。
悠希は思わず、長川貞也をもう一度じっと見た。
長川グループは後継問題で内紛が絶えない。あの子さえいれば、彼の権勢は盤石になる。
それに見た目も、反則級だ。身長は一九〇。モデルみたいに整った体躯。刃物で彫ったような顔立ち。上に立つ者の圧をまといながら、生まれつきの貴種めいた優雅さと冷たさが同居している。
欠点のない容姿に、天下を握るほどの財。
この先、女に困るわけがない。だから子どもが二歳になっても、名分ひとつ与えないのだろう。
渣の極み。しかも人として終わってる。救いようがないほど、渣で腐ってる。
悠希は遠慮なく値踏みするように一周見回し、唇を皮肉に吊り上げた。嫌悪がさらに濃くなる。
「長川様はお忙しいでしょうし、誰が連れて来ても別に構いません」
投げやりに言い捨て、さっさと立ち去ろうとする。これ以上、一秒だって関わりたくない。
長川貞也の冷えた瞳が、彼女の敵意と嫌悪を鋭く捉えた。眉間がきゅっと寄る。
――構わない、じゃない。これは明らかに、俺に会いたくないって顔だ。
反射的に手が伸び、白い手首を掴んだ。
そして、単刀直入に問う。
「俺が、君に何をした?」
温かい感触に、悠希は即座に振りほどき、一歩引く。
次いで、横の箱から消毒用のコットンを取り出し、まるでウイルスでも付いたみたいにごしごしと擦り始めた。
長川貞也は、その動きを見てこめかみが跳ねた。吐き気がするほど腹が立つ。
「……どうしてそこまで俺を嫌う?」
悠希はコットンをゴミ箱へ放り投げ、小さな顔を氷みたいに冷やす。
「考えすぎです」
「俺が目が見えないとでも?」
長川貞也は耐えに耐え、額の青筋が浮き上がる。この女は、わざと限界の上で踊っている。
悠希は美しい目をつり上げた。
「へえ。眼科なら診られますよ。ただし別料金です。順番取り直して、依頼からどうぞ」
長川貞也の顔がさらに黒く沈む。
悠希は平然と、入口を指さした。
「十分経ちました。あなたの愛人、外で日光浴してますよ」
長川貞也の眼底の陰が濃くなる。それでも怒りを押し沈め、ふいに悠希へ歩み寄った。
入口から吹き込んだ冷たい風を巻き込み、どこか懐かしい松と木の香りがふわりと鼻先を打つ。
悠希が一瞬だけ意識を揺らした、その次には。
大きな影が彼女を覆い、逃げ場のない圧が落ちてきた。
敵意を向けられるのも気に食わない。鈴木美由紀を「愛人」と決めつけられるのも、なおさらだ。
長川貞也は冷えた息を吐き、淡々と言う。
「鈴木美由紀は俺の愛人じゃない。涼の母親だ」
それだけ投げ捨てるように言い残し、診察室へ戻った。
ほどなくして、眠ったままの長川涼を上着で包んで抱え、出てくる。意味深に悠希を一瞥し、そのまま足早に去った。
悠希は呆れ顔のまま固まった。
愛人じゃないのに、息子の母親?
それ、もっと渣じゃない?
背中に突き刺さる「殺す気の視線」を、長川貞也ははっきり感じ取っていた。疑念は、ますます濃くなる。
ホールへ曲がったところで、鈴木青がすぐに駆け寄ってきた。
「ユキのことを調べろ。できるだけ詳しく。俺と彼女の間に、行動や出来事の重なりが一つでもないか確認したい」
敵意が強すぎる。感情が外に漏れている。必ず理由がある。
研究室。大きな床までの窓の前で、橋野悠希は骨製のメスを器用に弄びながら、下を冷ややかに見下ろしていた。
泣きじゃくる鈴木美由紀が長川貞也の胸に飛び込み、甘える。最後は宥められて車へ乗せられた。
二人の距離感は自然すぎる。長い間、親密な関係を続けてきたのは明らかだ。
クズ男。あれで「愛人じゃない」?
綾波東也が、さっき挽いたばかりのハンドドリップを差し出し、悠希の隣に並ぶ。
「いやぁ……倫理崩壊。人の心がない」
悠希は胡乱げに横目で見た。
「夜クラブで道徳と法律の講座でも開く気?」
綾波東也は声を上げて笑う。
「悠希ちゃん、元夫が別の女といちゃついてるのを目の前で見て、どんな気分? いっそ刺したくならない?」
その言葉に、悠希の瞳はむしろ薄く冷える。
「長川貞也を刺す? ふん。私の刃が汚れる」
「こんなクズ、早く切って正解。私が可哀想なのは、子どもの体だけ。治ったら長川グループとの案件は全部避ける。あんなのに、もう目を汚されたくない」
そう言ってコーヒーを一口――した途端、顔をしかめて吐き出した。
慌ててカップを脇へ押しやり、ぶっきらぼうに言い捨てる。
「まずい」
綾波東也は怪訝そうに眉を上げた。
「それ、悠希ちゃんが一番好きなやつだろ? 火消し用に淹れたのに」
悠希は冷たい目を細め、即座に話を逸らす。
「今夜、夜クラブに行く。一番奥の部屋、空けといて」
綾波東也は案の定、コーヒーの件を忘れて身を乗り出した。
「おっ、悠希ちゃん、刺激された? 開眼しに行く感じ?」
「安心しろ。俺がいる。今夜お前が見る美男、誰一人として長川貞也に負けない。しかも一晩で、日替わりも可能」
悠希は机のファイルを掴み、容赦なく投げつけた。
「死にたいの?」
綾波東也は殴られて「うぎゃあ」と情けない声を上げる。
「じゃあ美男じゃなくて、飲んで潰れる? 長川貞也のために? そこまでじゃ――だったら俺でも……」
ぱきん。
悠希はステンレスのメスを、指先だけでへし折った。
綾波東也が一瞬で大人しくなる。
「手配する。今すぐ手配する。誰にも邪魔させない」
悠希は、犬みたいに媚びるくせに下品なこいつが可笑しくなり、艶やかに笑った。
「くだらないこと言ってないで。島崎ワイナリーの村木様と約束があるの。G市の酒業界、伸びしろがある。海外の酒関連の事業、こっちへ移したい」
綾波東也は即座に腰を低くする。
「了解」
