第3章 ママはきっとあなたを助ける
藤原由真は続けて言った。
「……あのときさ。雨音が俺のそばに来て、励まして、叱って、引き戻してくれなかったら……たぶん俺、ほんとに死んでた。俺は雨音を愛してる。だから――頼むから、俺の我が儘だと思って今回は折れてくれ」
森川汐里はその言葉を聞きながら、胸の奥に果てしない苦さが滲んでいくのを感じた。
心臓を大きな手で何度も揉み潰されるみたいに、鈍い痛みが続く。息が詰まるほどに。
――彼は、私を信じない。愛してもいない。
そして彼が愛しているのは、小野雨音。
込み上げる痛みを必死に押し殺し、森川汐里は口を開いた。自分の声が掠れているのが、はっきり分かった。
「……小野雨音って、どんな人なの。教えて」
痛くても、聞きたかった。
藤原由真は雨音の名を口にした途端、表情が目に見えて柔らいだ。どこか誇らしげに言う。
「綺麗で、優しい。俺が一番助けが必要なときに励ましてくれた。いつも俺の機嫌を見てくれるし、頭もいい。仕事の厄介ごとも、一緒に考えてくれる」
一言、また一言が刃になって、森川汐里の胸に突き立つ。
何本も、何本も。血が滲むまで。
森川汐里は視線を落とし、長い沈黙のあと、ようやく小さく声を出した。
「……彼女は、あなたを愛してる?」
「当然だ」
森川汐里は小さく頷く。
それならいい。藤原由真が幸せなら、それで。
少なくとも、私がいなくなっても。彼のそばには彼を愛する人がいる。
少なくとも、私は罪悪感を抱えたまま逝かずに済む。
夏の朝は早い。カーテンの隙間から斜めに差し込む朝日が、二人の間を切り分けた。
昇っていく太陽を見つめ、森川汐里は必死に笑みを作る。
「藤原由真。もう行って」
藤原由真は動かない。眉を寄せたまま、じっと彼女を見ている。
彼が何を求めているか、森川汐里には分かっていた。目を上げ、視線を合わせる。
「安心して。約束は守る。今夜、離婚協議書はあなたの手元に届く」
藤原由真は、今日の森川汐里がどこか違う気がしてならなかった。考えようとした、そのとき。
胸の中に、ふっと温もりが落ちてきた。
「動かないで……このまま、少しだけ抱かせて。……最後のお願いだから」
声が詰まり、少し震える。
藤原由真は不機嫌そうに顔をしかめたが、深くは考えなかった。「最後のお願い」という言葉の意味も。
森川汐里がいつ眠ったのかは分からない。
目覚めた瞬間、全身のだるさと痛みが、昨夜の出来事を容赦なく突きつけてきた。
隣へ手を伸ばす。だが、そこはもう冷たい。
森川汐里は身体を起こし、散らかったままの部屋を、痛みに耐えながら片づけた。
急いで出ていったのだろう。床に、藤原由真の腕時計が落ちている。
森川汐里はそれを拾い、そっと箱に入れた。箱の中には、娘の写真がある。
「悦子……ママ、必ず助けるから」
写真を撫でた指先が震え、次の瞬間、涙が視界を滲ませた。
寝室を出ると、テーブルの上に白い紙が置かれていた。
見なくても分かる。離婚協議書だ。
苦笑して手に取ると、鈴木弁護士に送った文面と同じだった。ただ、最下段に追記がある。
離婚後、この先一生、A市へ戻らないこと。戻った場合、彼が与えた資産をすべて回収する権利を持つ――そう、黒々と。
森川汐里の胸に苦味が滲む。
資産なんて欲しくない。
ただこの一文は、藤原由真が二度と彼女に会いたくないという決意そのものだった。
少しだけ迷ってから、森川汐里はペンを取り、迷いなく署名した。
自分の名前がそこに載ったのを見て、長く息を吐く。
――サインはした。けれど、今は渡せない。
正式に離婚するまで、彼女はここにいなければならない。
森川汐里は書類を封し、配送窓口で「七日後に発送」と指定した。
排卵誘発の注射を打ったあとは再検査が必要だ。時間を無駄にできず、彼女は病院へ向かった。
昨日と同じ医師だった。
医師は森川汐里の首元の青紫を見て、眉をひそめる。
「森川さん……誰かに危害を加えられていませんか」
森川汐里は反射的に首に触れ、襟を引き上げて隠し、首を振った。
「大丈夫です。先生、妊娠しているか分かるのは、いつ頃ですか」
「早くても一週間ですね」
医師はさらに諭す。
「一週間後、妊娠していなければ、必ず化学療法を。これ以上は延ばせません」
「分かってます」
森川汐里は、最悪の想定も済ませていた。
「もし化学療法を受けなかったら……あとどれくらい生きられますか」
医師はため息をつく。
「半年です」
そして付け加えた。
「後期は強い痛みが出ます。治療を拒んで命を絶つ方もいます。来ないと決めるなら、病と闘う覚悟を」
森川汐里は頷き、笑った。
「先生。私、自分には自信があります」
医師はもう止めなかった。表情に、わずかな憐れみが滲む。
「事情は分かりませんが……あなたは、私が見た中で一番勇敢です」
消毒液の匂いが満ちた病院を出て、森川汐里は外の空気を深く吸い込んだ。
夏の陽射しは眩しく、雨が来そうな蒸し暑さ。それなのに、身体の芯だけが凍えるほど冷たい。
不意に着信音が鳴った。
出た瞬間、藤原由真の声が耳を刺す。
「サインしたか」
森川汐里は黙った。
沈黙が藤原由真を苛立たせる。
「森川汐里、いい加減にしろ。ちゃんとサインしろ。余計な真似をするな」
「……サインしたよ」
掠れた声だった。
藤原由真は少しだけ口調を和らげる。
「なら渡せ。鈴木弁護士を行かせる」
「由真……協議書は、今、私の手元にないの」
電話越しでも分かるほど、彼の怒りが膨れ上がった。
「森川汐里! 何がしたい!」
「昨日、条件を飲めばサインするって言っただろ!」
そして罵声が続く。
「卑怯な手を使うな。どこまで下品なんだ」
「男が欲しいなら金で用意してやる。俺を汚すな!」
