第1章
リハーサルホールのドアの向こうから聞こえてきた声は、鋭利な刃物のように私の心を抉った。
「呼んだらついてくる子犬みたいだよな」
聞き慣れたその声が、嘲るように響く。
「実力もなければ個性もない。あんなのと付き合えるわけないだろ」
高田誠一の声だった。
六歳の頃から「誠一兄さん」と呼び慕い、ずっと一緒だった。両親が私たちの婚約話を持ち出すまでは、本当に、仲が良かったのに。
すべてが変わってしまった。
「……大丈夫か」
隣にいた藤崎くんが、心配そうに声をかけてくる。
「誠一はきっと酔ってたんだ。だからあんな戯言を……気にするな」
私はかぶりを振る。涙が、瞳のふちで懸命に堪えられていた。
誠一兄さんはもう一年近く、私との共演を拒み、メッセージも無視し、音楽室に私が入ることさえ許さなかった。学院で顔を合わせても、私を認めた瞬間に踵を返して去っていく。
ただ、どうしてなのか知りたかった。
今、その理由がわかった。
彼の目には、私は道端の野良猫と同じだったのだ。機嫌がいいときだけ構い、飽きれば追い払う。そんな存在に過ぎなかった。
「綾音?」
「藤崎くん、音楽室まで付き合ってくれる?」
彼が差し出してくれた楽譜ケースを受け取り、それで顔を隠すように俯く。
「もう、あの人と話す必要なんてないみたい」
彼の気持ちは、もう痛いほどわかってしまったから。
その時、リハーサルホールのドアが内側から開けられた。
合奏の授業を担当する野原先生が、人の良さそうな笑顔で戸口に立っている。
「おお、白石! ちょうどよかった、今、学園祭の音楽会で共演する曲について話していたところなんだ」
先生はそう言うなり私の手を取り、有無を言わさずリハーサルホールへと引き入れた。
私は身体をこわばらせたまま、中へと足を踏み入れる。ピアノの前に座る高田誠一が視界に入ったが、彼は鍵盤に視線を落としたまま、私と目を合わせようともしない。
「さあ、ここに座って」
野原先生は、誠一兄さんのピアノの向かいにある演奏席を指差した。
「誠一、白石にそんな態度をとるんじゃない。君たち二人は学院の誇りなんだからな」
高田誠一は一言も発しない。リハーサルホール全体の空気が、窒息しそうなほど張り詰めていた。
「野原先生、白石さんは少し体調が優れないのかもしれません」
見かねた藤崎くんが助け舟を出してくれる。
「また後日にしては——」
「白石綾音」
高田誠一が、唐突に口を開いた。その声は、恐ろしいほどに冷え切っていた。
「どうして俺の言うことを聞かない?」
彼はついに顔を上げ、射抜くように私をまっすぐに見据える。
「両家が俺たちの生活に干渉しなくなるまで、練習は別々にしようと要求したはずだ。なのに君は……どうしてまだついてきて俺を追い詰めるんだ!」
私は黙り込んだまま、膝の上のヴァイオリンに触れることさえできなかった。
ただならぬ雰囲気を察した野原先生が、軽く咳払いをする。
「どうやら君たちは、二人きりで話す必要があるようだ。……みんな、我々は一旦外に出よう」
すぐに、広いリハーサルホールには私と高田誠一だけが残された。
静寂が、目に見えない壁のように私たちを隔てている。
「君にプライドはないのか?」
高田誠一の声が、沈黙を破った。
「俺はずっと、君をただの子分くらいにしか思ってなかった。わかるか? 少しは自分で努力したらどうだ。いつも俺の周りをうろついてないで……君みたいな人間、鬱陶しいんだよ」
誠一の言葉が、鋼の針となって私の心臓に突き刺さる。
今、ようやく彼の本心が聞こえた気がした。
「俺から離れてくれないか」
彼の声には、隠そうともしない侮蔑が滲んでいた。
「俺には俺の、追い求める音楽がある。君に足枷をつけられたくないんだ。わかるだろ?」
指先が氷のように冷えきって、ヴァイオリンを手に取る力も湧いてこない。
記憶が、潮のように押し寄せる。思えば過去のどんな時も、彼は私に対してひどく無頓着だった。私の演奏への苛立ちと侮蔑。私に向ける、あの嫌悪に満ちた眼差し。私はただ、それらのサインからずっと目を逸らし続けてきただけなのだ。
「誠一兄さん」
私は、声が震えないように必死で平静を装った。
「これまで長い間、ご指導ありがとうございました」
深く、息を吸う。
「あなたの言う通りです。私も、自分の道を探さなくちゃいけません。もう、あなたの邪魔はしませんから」
ヴァイオリンをケースにしまい、私はリハーサルホールを後にした。
一度も、振り返らなかった。
ようやく、すべてが終わったのだ。








