4
新谷結奈は慌てて咳払いをした。
「藤井社長……」
Yグループ社長の藤井翼。――一年後、世界最高峰のPRグループを率いる男になる。資産は千億単位、そして氷みたいに冷たい、と噂される人物。
藤井翼は結奈を見下ろした。
「降りられるか」
「はい……」
結奈は手足をもつれさせながら体勢を整え、そっと一歩退いた。
藤井翼の視線が、彼女の頬の汚れに止まる。口調は丁寧なのに、距離だけは一切縮まらない。
「火事か?」
結奈は首を横に振った。
……そっか。顔も髪もわざと汚したから、火事場から逃げてきたみたいに見えるんだ。
夜気の中、気まずい笑みが浮かぶ。それでも黒い瞳だけは濁らない。
今夜の目的――新谷奈津子母娘の化けの皮を剥ぐ。そのために、わざと弱々しく、みじめに。
「閉じ込められてたんです。でも今日は妹の誕生日で……どうしても、外の空気を吸いたくて」
藤井翼は短く告げた。
「山口拓也が来ている」
頭の中が、ぶんっと鳴った。
山口拓也。恋人――山口家の次男。
前の人生で、結奈が病気で地下に押し込められたとき、彼は見向きもしなかった。それどころか新谷芽衣と手を組み、結奈の成果を奪い、結奈のベッドで婚約の段取りまで進めた。
それなのに自分は、彼が別れを切り出すたび狂ったように縋った。土砂降りの夜、山口家の門の前で待ち続け、十時間運転して会いに行って……。
――馬鹿みたい。
「優しくされた記憶」に縋って、「優しかった人はずっと優しい」なんて信じていた。
結奈は小さく、吐き捨てるように呟く。
「来てるなら、ちょうどいい。別れ話しよう」
そしてふっと表情を変え、目尻をやわらかく上げた。
「藤井社長。さっき助けてくれて、ありがとうございます。連絡先、交換できますか?」
藤井翼は頷かない。冷えた顔のまま、淡々と言う。
「俺と山口拓也の関係は知っているだろう」
結奈は差し出しかけた手を引っ込めた。
「知ってます。子どものころからのライバルですよね。じゃあ――私が彼と無関係になったら、交換してくれます?」
明るい大きな目が、まっすぐ藤井翼を映す。
墨紺のスーツに包まれた身体はすらりと伸び、立っているだけで品の圧がある。
前の人生、彼を見たのは二度きりだった。山口拓也の家で。あのときの藤井翼は病が深く、車椅子で、頬は青白かった。ほどなくして亡くなり、手にしていた株も権限も、山口拓也と親戚連中に食い尽くされた。
天が妬むって、こういうこと?
結奈は胸の内で息を吐く。
この人と繋がれたら……藤井翼の案件に乗れる。稼げる。新谷家にカードを止められても、私には資金が残る。
藤井翼は眉をわずかに寄せた。
「……そういうことになる」
「一言で決まり」
結奈は一歩詰め、軽く彼の胸を叩く。
「藤井社長、前のほう行きます?」
「行かない」
「じゃ、また」
結奈は小さく手を振り、前庭へ駆けていった。
藤井翼は去っていく背中を見送り、ベンチに腰を下ろしたままポケットから薬を数錠取り出し、口に放り込む。
「山口拓也と縁を切る」――そんな言葉、冗談として流すしかない。
K市中が知っているのだ。新谷結奈が山口拓也に、どれほどしつこく縋りついてきたか。
結奈は裏口から宴会場へ入った。
新谷奈津子なら、必ず見張りを置く。昨日の件を、結奈の口から漏らされるのが怖いはず。
案の定、正面は固められているのに、裏口は手薄だった。すんなり抜けて、視線を走らせ――新谷奈津子を見つける。
結奈は一直線に近づき、わざと声を張り上げた。
「ごめんなさい、お母さん! 私が悪かったです! これ、罰で写した家訓です! 二度としません! お願い、丸一日食事を抜くのだけはやめてください!」
空気が、ぴたりと止まる。
次の瞬間、周囲の視線が結奈に集まった。
新谷奈津子の笑顔が凍りつく。質素な服、ぼさぼさの髪、汚れた頬――結奈を見て一瞬、言葉を失った。脇のボディーガードへ目配せするが、もう遅い。
結奈は奈津子の手首を掴んだ。
「芽衣の窃盗、私が全部かぶります! あのブレスレット、私が盗んだって今ここで言います! だから書斎に閉じ込めないで……!」
富裕層の夫人たちの視線が、さっと冷たくなる。
「え、新谷芽衣が盗んだの?」
「そんな金持ちの娘が?」
奈津子は歯ぎしりしながら、結奈の耳元へ低く吐く。
「結奈、何のつもり?」
――殴られても黙っていた子が、今さら大勢の目の前で泣き喚く?
財産狙いか、それとも、誰かが裏で入れ知恵しているのか。
結奈は俯き、肩を小刻みに震わせた。
「書斎……寒くて。ネズミもいて……水も食べ物もなくて……三日もいたら、私、飢え死にします……」
夫人たちの声が一斉に尖る。
「新谷奈津子、あんた鬼ね」
「姉に罪を被せて閉じ込めて、妹の誕生日宴だなんて!」
「養女だからって、そこまでやる?」
結奈は俯いたまま、瞳の奥だけで笑った。
――これが第一歩。
新谷奈津子の「善い母」の仮面を、ここで剥がす。
奈津子は体裁が崩れそうになり、背中側で結奈の腕をぎゅっと捻った。
「結奈。お母さんは書斎で本を読ませただけよ。伝言が行き違ったの。奥様方に笑われるようなこと、やめなさい」
「……っ、痛い!」
結奈はわざとよろけて尻もちをつき、涙を一気に滲ませる。立ち上がる声は掠れた。
「お母さん、ごめんなさい……叩いてもいい……許してくれるなら、何でもします……」
ざわめきがさらに膨らむ。
「新谷夫人が手を上げた?」
「表じゃ養女に優しい顔して、裏でこれ……」
「取引先にも同じことするんじゃない? うち、協業見直すわ」
「私も……胸が冷える」
奈津子は引きつった笑みを貼り付け、結奈の腕を掴んで立たせた。
「結奈、誤解よ。芽衣に『書斎で探し物をして』って言っただけ。皆さまに、ちゃんと説明しなさい」
その目の奥に、濃い毒が宿る。
――今日で確信した。結奈はもう、以前の結奈ではない。
奈津子は結奈の耳元へ顔を寄せ、声を落とした。
「条件を言いなさい。何が望みなの?」
