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新谷結奈は口の端をつり上げた。

「南郊の別荘がほしい」

「いずれ渡すわ。今は改装中なの」新谷奈津子は口ではそう言いながら、目だけが底冷えしていた。けれど一歩だけ譲る。「学校の近くに高級マンションを手配してあげる。勉強に集中しなさい」

――血のつながりのない養女に、家の財産を渡すわけがない。まして誰も見向きもしない別荘一軒だって。

結奈を手元に置いているのは、いずれ芽衣の役に立たせるため。

自分は学校の株主だ。結奈を監視する方法ならいくらでもある。どんな腹を抱えているのか、全部見抜いてやる。

結奈は目を細め、にこりと笑う。

「うん。ありがとう、お母さん」

学校住まいで構わない。家にいなければ、新谷家の人間が四六時中こちらに目を光らせることもできない。

奈津子は結奈の肩を軽く叩き、慈愛ぶった手つきで髪を整えるふりをした。

「ほら、先に上で着替えてきなさい。……その髪、どうしたの。ぐちゃぐちゃじゃない」

結奈は小さく会釈し、周囲の夫人たちへ挨拶する。

「奥様方、失礼いたします」

夫人の一人が満足げに頷いた。

「結奈ちゃんは本当にしっかりしてるわね。早く着替えてらっしゃい。あとで私たちにも馬術大会のこと聞かせて。うちの主人、あなたに一票入れたいって言ってたわ」

結奈は浅い笑みを残し、足早に廊下を抜けた。

本館に足を踏み入れた瞬間、表情がすっと冷える。

階段を上がり、自分の寝室の前まで来たとき――中から声が漏れた。

「拓也……私たち、これ……よくないよね?」芽衣の声には迷いが混じる。「お姉ちゃんにバレたら……」

結奈の心臓が、どくんと落ちた。足が止まる。

――新谷芽衣と山口拓也。どうして、私の寝室に?

拓也の声は露骨に侮蔑を含んでいた。

「バレたってどうする。芽衣、お前が新谷家の本物の令嬢だろ。馬術大会も本来はお前が出るべきだ。あいつが大人しく出場権を譲ったら、俺はあいつに別れ話する」

胸の奥を乱暴につかまれたみたいで、結奈は壁に背を預けた。息が苦しい。

――やっぱり。二人はとっくに。

芽衣が病気になってからじゃない。もっと前からだ。

山口拓也は、最初から自分をまともに見ていなかったのだ。

芽衣が甘ったるく縋りつく。

「拓也……私があなたに嫁いだら、みんな反対しない?」

「誰だって知ってる。新谷結奈が俺にしつこく縋ってるってな。みんな俺に同情してる。お前が嫁ぐなら祝福されるさ」拓也はやさしい声を作った。「昨夜ホテルで言っただろ。責任取る」

「……ふん」

結奈は鼻で笑い、そっとドアの隙間を開けた。スマホのカメラを二人へ向け、無言で動画を回す。

中学の頃。熱を出した自分を、拓也は授業を抜けて病院へ連れて行った。

海が見たいと言えば、海辺で花火まで用意してくれた。

確かに、昔はやさしかった。――芽衣がメディアの前で「養女」だと暴露してから、拓也は露骨に距離を取るようになったけれど。

寝室では芽衣がくねるように絡みつく。

「拓也、今日はあなたの車? それとも私の車?」

「俺の車。コンドームあるし」拓也が笑う。

そして急かす声。

「芽衣、早く結奈の登録情報をお前のに変えろ。明日、神楽のトレーナーに『仕上げさせる』。あいつの馬、出られなくしてやる」

「うん」

カタカタ、とキーボードを叩く音が続いた。

結奈は大きく息を吸い込み、胸の中の荒れ狂うものを押し込めた。

前の人生。締切直前、教師に見せられた登録表で、自分の名前が芽衣に差し替わっていた。

あのときは単なる入力ミスだと思った。似た名前だから取り違えたのだと。

――違う。こいつらが意図的に改ざんしていた。

撮影を終え、結奈はその場で教師へメッセージを送った。アカウントが乗っ取られたため、教師本人の手で登録し直してほしい、と。

そして階段を駆け下り、駐車場へ向かう。

山口拓也の車に録音ペンを仕込み、芽衣と関係を持つ証拠を押さえるためだ。

車は屋敷の裏庭の駐車場にあった。周囲を一瞥し、誰もいないのを確かめてから、自分の誕生日を打ち込む。

――開かない。

芽衣の誕生日を入れると、あっさりロックが外れた。

結奈は嘲るように小さく笑い、素早く車内へ滑り込む。

車内には芽衣が使う甘ったるい香水の残り香がこびりついていた。胸がむかつき、吐き気がこみ上げる。

気を落ち着け、助手席の下に手を突っ込む。録音ペンを押し込もうとした瞬間――外で足音。

結奈は息を殺し、反射的に座席の下へ身を縮めた。窓の隙間越しに見えたのは、すらりとした長身の影。

藤井翼。

そしてようやく気づく。翼の車が、すぐ隣に停まっている。

しばらくして、隣の車が動き出す気配。発進音。

結奈は慎重に起き上がり、車窓から外を窺う。誰もいない――そう思ってドアを開け、そっと降りた。

ふわり、と煙草の匂いが鼻を刺す。

咳き込みながら振り向くと、翼が見下ろしていた。

結奈は拳をぎゅっと握り、引きつった笑みを作る。

「藤井社長……偶然ですね。またお会いしました」

翼の視線が、結奈の手元へ落ちる。録音ペンのキャップ。眉がわずかに寄る。だが何も言わず、ただ静かに見ていた。

結奈は平静を装い、咄嗟に言い訳を探す。

「拓也の車で、ちょっと探し物を……」

「録音ペンを?」翼が淡々と刺す。

結奈は俯き、自分がキャップを握っていることに気づいた。心臓が跳ね、慌てて首を振る。

「ち、違います。これは……万年筆です」

月明かりの下、結奈の頬は熱く染まっていた。翼には分かる。――この子は自分を怖がっている。

遠くから芽衣と拓也の声が近づいてきた。足音も、もうすぐそこだ。

結奈は蹲るか逃げるか迷い、焦った小声で言う。

「藤井社長……お願い。私を見たって、言わないで」

翼は一歩詰め、結奈の手首を掴んだ。もう片方の手で後ろの車のドアを開けると、有無を言わさず後部座席へ押し込む。

結奈は後部座席で身を翻し、無防備に翼の胸へぶつかった。

白いシャツの胸元に、鮮やかな口紅の跡がくっきりと残る。

薄暗い車内。

気まずさと、妙に艶めいた熱が、一気に膨らんだ。

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