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新谷結奈は慌てて視線を落とした。
「すみません、藤井社長。わざとじゃないんです。シャツ、おいくらですか。弁償します」
藤井翼は淡々と彼女を一瞥し、それから自分の胸元へ目を落とす。そこでようやく、くっきりと残った口紅の跡に気づいた。
「金には困ってない。ただ、このままこれを着て外には出られないだろう」
「じゃあ、どうしたら……」新谷結奈は顔を上げ、ますます強張った。
そのとき、車外からコンコンと窓を叩く音がした。警鐘みたいに響く。山口拓也だ。
新谷結奈は青ざめ、藤井翼の脚のそばへ身を縮めて丸くなる。
「藤井社長、お願いです。絶対に、私がここにいるって知られないようにしてください」
藤井翼は薄い唇をわずかに開き、低く落ち着いた声で言った。
「その位置は不自然だ。勘ぐられる」
新谷結奈は下唇を噛み、小さく呟く。
「……じゃあ、トランクに……?」
「お前、登るのも跳ぶのも得意だな」藤井翼が横目で見る。
彼は、上品なお嬢様が二階から無茶をして飛び降り、全身を埃だらけにしている光景なんて、見たことがなかった。だが新谷結奈は、それを気にする素振りすらない。
新谷結奈は唇を引き結び、黙り込む。迷った末に目を上げた。
「藤井社長……数分だけ、失礼していいですか。本当に、数分だけ」
藤井翼の眉がわずかに上がる。声は淡い。
「また妙な手を思いついたか」
「お願いします、藤井社長。今回だけ助けてください。あとで何でもしますから」
新谷結奈は藤井翼の手首をぎゅっと掴んだ。
外で山口拓也が苛立った声を上げる。
「兄貴、窓開けて挨拶くらいしないの?」
新谷結奈は息を殺しながら、そっと藤井翼の横へ身を横たえた。従順を装い、彼の太腿に頭を預ける。顔は深く胸元に埋め、髪で頬を隠し、呼吸さえ薄くする。
藤井翼は一瞬、動きを止めた。
十年近く――ここまで距離を詰めてくる女は、彼の周りにいなかった。女は面倒だとしか思ってこなかったのに、新谷結奈が隣にいても、なぜか苛立ちが湧かない。
藤井翼はゆっくりと窓を少しだけ下げ、冷えた横顔の半分だけを外へ見せた。
山口拓也は片腕を車の屋根に乗せる。
「兄貴、なんで会場にいないんだよ。車で一人とか退屈だろ」
膝の上の新谷結奈が小さく震えた。藤井翼は拳を握り、服越しに軽く、ぽん、と叩く。落ち着け、とでも言うように。
隣に立つ新谷芽衣へ視線を流し、藤井翼は短く言った。
「用件は」
山口拓也は新谷芽衣の肩を親しげに抱き、軽薄に笑う。
「挨拶だけ。芽衣、こいつが俺の兄貴。山口家の当主、藤井翼。山口なのに山口じゃないって不思議だろ? 兄貴は継母の姓を名乗ってんだ」
藤井翼の胸元に顔を押しつけたまま、新谷結奈は指先を強く握り締めた。
前の人生では、確かに違和感はあった。山口家のトップが山口姓じゃない。
藤井翼の母はかつて山口家に嫁いだが、藤井翼を身籠ったまま離婚し、翼は母の姓のまま育てられた。その後、五歳で山口家へ戻った。事情を知らない者は、隠し子だと勝手に決めつける。
山口拓也はその話を、公の場で何度も面白がって口にした。――なのに、あの頃の自分は一度も不快に思わなかった。今思えば、胸が悪い。
「翼兄さん、こんばんは」新谷芽衣が甘ったるく呼ぶ。
藤井翼は即座に切り捨てる。
「君と親しくした覚えはない」
新谷芽衣の笑みが引きつる。
「……藤井社長」
山口拓也が慌てて取り繕う。
「芽衣、兄貴はこういう奴でさ。女の扱いが下手なんだ」
新谷芽衣の目が鋭く光った。
「じゃあ、膝の上の人は誰?」
焼けるような視線が背中に刺さる。新谷結奈はさらに体を固くし、呼吸まで止めた。
山口拓也は面白がるように言う。
「兄貴、女連れなんて初めて見た。外じゃ『男が好き』なんて噂まであるんだぞ」
藤井翼は平然と返した。
「勘違いならいいが、お前の彼女は新谷結奈で、こちらは新谷芽衣だったな。俺が顔を取り違えたか。それとも、お前が乗り換えたか」
山口拓也の表情が凍りつく。
無理やり口元を吊り上げ、平静を装った。
「俺は二人とも仲いいだけだ。兄貴は俺の恋愛に口出すなよ。……それより、親父と母さんがそろそろ兄貴に政略結婚させるだろ。膝の上の子、泣くんじゃね?」
藤井翼の声は静かなまま、圧だけが増した。
「新谷結奈が書斎に閉じ込められて、飲まず食わずだと聞いた。お前は心配したか」
新谷芽衣は一瞬、息を呑む。口角の笑みが固まった。
――どうして藤井翼が、そのことを知っているの?
藤井翼は山口拓也を見て、淡々と言う。
「恋人のことは、お前には関係ないらしいな」
新谷芽衣が必死に誤魔化す。
「藤井社長、誤解です。お姉ちゃんは馬術大会の準備で忙しくて……」
藤井翼は一度だけ頷き、冷たく切り捨てた。
「お前の家の事情に興味はない」
カタン、と窓が上がり、外の二人の顔は遮断された。
山口拓也と新谷芽衣は顔を見合わせ、舌打ちして自分の車へ戻る。アクセルを踏み込み、勢いよく走り去った。
藤井翼は膝の上の女に視線を落とした。
「行った」
新谷結奈はようやく身を起こし、こっそり息を吐いた。
だがその瞬間、手が滑り、藤井翼の太腿に触れてしまう。
頬に熱が一気に集まり、赤く染まった。
藤井翼は目を伏せ、じっと彼女を見下ろす。
「……まだ何かするつもりか」
