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新谷結奈は気まずそうに手を引っ込め、服の裾をぎゅっと握りしめた。
「すみません、藤井社長……すみません、すみません。手が滑りました」
まつげを伏せ、声は小さく柔らかい。顔を上げることすらできない。
藤井翼は伏し目がちに彼女を一瞥し、笑うようで笑わないまま言った。
「滑る場所が、やけに都合いいな」
そう言って、服についた埃をぱっぱっと払う。
「藤井社長、安心してください。あなたに変な気はありません。私はただ連絡先を伺いたかっただけで……でも、もうすぐ彼女ができるなら、必要ないですよね」
新谷結奈は慌てて顔を上げ、真剣に弁明する。
藤井翼は声を落とした。
「お前が山口拓也と完全に縁を切ったら、連絡先は渡す」
「本当ですか?」
結奈の目がまん丸になる。瞳の奥に、細かな光がぱっと散った。
藤井翼は小さく頷く。
「言ったことは守る」
なぜそこまで連絡先を欲しがるのか。藤井翼には分からない。何か、隠しているのかもしれない――そんな予感だけが残った。
新谷結奈は少し肩の力を抜き、口元に笑みを浮かべる。
「藤井社長、今日は助けてくれてありがとうございます」
「助けたつもりはない」
藤井翼の口調はいつもの冷たさに戻った。
「俺は元々、言い方がきついだけだ」
新谷結奈は思わずくすっと笑う。さっきまでの硬さが、嘘みたいに消えていた。
「本当に口が悪い人は、そんなふうに自分で自分を落としたりしません」
藤井翼は黙って、彼女の目に宿る澄んだ笑みを見つめた。ほんの一瞬、意識が遠のく。
「藤井社長、噂で聞いてた藤井社長と違う。あなた、あそこまで冷たい人じゃない」
新谷結奈の言葉は飾りがなく、心からの実感だった。
藤井翼は視線を引き戻し、単刀直入に問う。
「他に何を手伝えばいい」
結奈の笑みが固まる。
「え? いえ、ないです。もう頼むことなんて……」
「頼むことがないなら、なぜ持ち上げる」
藤井翼の顔が、さらに冷えた。
新谷結奈はまっすぐな目で返す。
「お世辞じゃないです。実話を言っただけ。今日助けてもらった分、今度は私が返します。私にできることがあったら、絶対言ってください」
体を探ると、服の内側に香りのサンプルカードが一枚だけ入っていた。ペンで名前と携帯番号を書き込む。
「藤井社長、また」
新谷結奈は両手でカードを差し出し、ドアを押して車を降りた。
藤井翼は小さなカードを受け取る。ふわりと、ジャスミンと柚子の淡い香りが漂った。
新谷結奈は駐車場で地味なアウディA4を見つけ、門へ向かって走らせる。山口拓也と新谷芽衣を追うつもりだった。
計画は車の中じゃない。今頃はホテル――そういうことだ。
屋敷の門に着くと、山口拓也の車が右へ走り去るのが見えた。
追いかけようとした瞬間、門の警備員が腕を組んで立ちふさがり、頑として開けない。
新谷結奈は窓を下げ、顔を出す。
「開けて」
警備員は丁寧な口調のまま、一歩も退かない。
「お嬢様、奥様のご指示で、外出はできません」
「急いでるの! 早く開けて!」
結奈は苛立ってクラクションを強く鳴らす。
それでも警備員は動かない。
「お嬢様、困らせないでください。奥様が『今日は家で休め』と――」
「私の物が盗まれたの。今すぐ追わなきゃいけない。見つからなかったら、責任取れる?」
拓也の車が遠ざかっていくのが見えて、焦りが胸を焼いた。
警備員は冷えた顔で言い切る。
「奥様に報告し、警察を呼びます」
怒りで、結奈の指がハンドルに食い込む。
そのとき、後ろに藤井翼の車が滑るように停まった。
運転手がクラクションを鳴らす。
警備員は顔色を変え、慌てて小走りで向かう。
藤井翼の運転手、中村賢也が冷淡に問う。
「前で何してる」
「お嬢様が外出を希望されていますが、現在は出せません」
警備員が正直に答えた。
中村賢也は容赦なく促す。
「事情は知らない。藤井社長が出る。すぐ門を開けろ」
「左から回っていただければ――」
警備員が恐る恐る提案した瞬間。
中村賢也が鼻で笑う。
「藤井社長の車が世界限定だって知ってるか? 左は入口だ。擦ったらどうする。お前、払えるのか」
警備員は言葉を失う。
後部座席で藤井翼がゆっくりと目を上げた。黒い瞳が、氷みたいに警備員を射抜く。
「出られないのは、お嬢様か。それとも俺か」
「い、いえ! 誤解です! お嬢様が――」
警備員は青くなって弁明する。
藤井翼は声を冷やした。
「俺を足止めして、協業条件でも出すつもりか。脅しか」
もう抵抗できない。
「……門、開けろ!」
門がゆっくり開く。
新谷結奈はアクセルを踏み込み、一気に外へ飛び出した。
藤井翼の車も続いて出る。
中村賢也が前方を見て、恭しく報告した。
「藤井社長、新谷さんは無事に出ました」
「山口拓也に人をつけろ。大ごとにするな」
藤井翼は眉間を揉んだ。
新谷結奈は二人を追い、ホテルへ向かった。
駐車場で山口拓也と新谷芽衣は迷いもなくエレベーターへ。慣れた足取りで上階に消えていく。初めてじゃない動きだった。
結奈はホテルのホールに戻り、隅に立って電話をかける。フロントの反応を探りながら。
「すみません。赤ワインを1本、部屋に届けてください」
フロントが確認する。
「お部屋番号を頂戴できますか」
結奈は声を沈めた。
「山口拓也の部屋」
フロントは即座に答える。
「新谷芽衣お嬢様ですね。いつも藤井様とお飲みの、エシェゾー・グラン・クリュでよろしいでしょうか」
結奈はスマホを握りしめた。胸の奥が、ずしりと重く沈む。
――いつも? つまり、ここで何度も会っていた。
「新谷様、聞こえておりますか?」
結奈は我に返り、怒りを噛み殺して答える。
「……それでいいです。それを」
「ではお支払いは、以前と同じく下4桁が7701のカードで――」
心臓が、底へ落ちた。
下4桁が7701。
それは結奈が山口拓也に渡した家族カードだった。
あの二人は、ここで逢い引きして酒を飲み――その金まで、自分のカードで払っていた。
