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人波が絶えず行き交い、足音だけがやけに大きく耳に刺さる。

新谷結奈は手のひらに爪を食い込ませ、ようやく荒れた呼吸を整えた。

スマホを耳に当てたまま、電話口へ一語ずつ噛みしめるように告げる。

「そのまま切ってください。ついでに、前の同じ類いの明細も全部まとめて、印刷しておいて。あとでフロントに取りに行かせます」

「かしこまりました、新谷様」

フロントが通話を切る。

結奈は少し離れた場所に立ったまま、フロントがスタッフに指示を出すのを見届けた。胸いっぱいに息を吸い込み、気持ちを整えてから足早に近づく。

スタッフはレストランで赤ワインを受け取り、ワゴンに載せてエレベーター前で待機していた。

結奈は用意しておいたもう一本の録音ペンを取り出し、そのまま迷いなく歩いていく。

スタッフの横をすれ違う瞬間、ふっと足から力を抜いた。わざと足首をくじいたふりをして、軽く相手の身体に触れる。

支えられた一瞬の隙――手首を返し、録音ペンをそばのアイスバケツへ滑り込ませた。

カラン、と氷が鳴る。ペンは氷の隙間をすとんと落ち、何事もなかったように沈んだ。

結奈は体勢を立て直し、申し訳なさそうに頭を下げる。

「すみません」

「申し訳ございません、お客様。お怪我はありませんか」スタッフが慌てて支える。

ちょうどエレベーターの扉が開いた。

結奈は先に乗り込み、丁寧に尋ねた。

「大丈夫です。何階ですか」

「18階です」

結奈は目を丸くする芝居をする。

「え、奇遇。私も18階です」

18階に到着すると、結奈が先に降りた。

左手の部屋の前まで行き、カードキーを取り出して開けるふりをする。スタッフはワゴンを押し、右側の部屋へ向かった。

結奈はすぐに壁へ身体を貼りつけ、そっとスマホを取り出す。角度を調整し、右のドアが画面に入る位置に構えた。

コンコン。

ノックの音。

室内。

新谷芽衣はバスタオルを身体に巻いただけで、濡れた髪が肩に張りついている。ドアへ近づき、警戒するように声を上げた。

「誰?」

「ルームサービスでございます」

芽衣がドアを開ける。視界に入ったのは赤ワインのボトル。

スタッフが礼儀正しく名乗る。

「新谷様、赤ワインをお届けに参りました。デキャンタージュいたしましょうか」

「置いてって」芽衣は一歩下がり、ボトルを見て満足そうに目を細めた。

スタッフはワインとアイスバケツを置き、頭を下げて退出する。

入れ替わるように、浴室から山口拓也が出てきた。上半身は裸、髪を濡らしたまま、口元に軽薄な笑み。

「芽衣、妊活中は赤ワインなんか飲んじゃダメだろ」

「なに言ってんの!」芽衣は頬を赤くして睨む。「誰があんたの子を産むなんて言ったのよ」

拓也が距離を詰め、腰を抱く。

「馬術大会が終わったら、年末に俺と結婚するって話だったよな?」

芽衣は計算する目になり、きっぱり言い直す。

「勘違い。大会が終わって、私が3位以内に入れたら、でしょ。栄誉もないのに山口家に嫁げるわけないじゃない」

拓也は鼻で笑った。

「山口翼のYグループがスポンサーだ。適当に枠ねじ込ませればいいだけだろ」

「藤井社長? あなたと仲、良くないじゃない。私のために動く?」芽衣は疑わしげに首を傾ける。

拓也は芽衣の頬を指でつまむ。

「山口家で『藤井』の姓を名乗ってるのはあいつだけだ。俺の顔を潰せるわけないだろ」

「ほんと、悪い男」芽衣は甘く笑い、拓也の胸に身体を寄せた。「じゃあ今は我慢ね。大会が終わって、あなたが結奈と別れるまで」

拓也の瞳の奥が冷たく光る。

「芽衣、別れ話はまだしない。あいつを追い出して、馬だけ残せ。お前があいつの馬で出るんだ」

「拓也、頭いい!」芽衣は首に腕を回す。「神楽はサラブレッドで、平地スピードの王者だもん」

拓也が低く笑う。

「俺のスピードもいいぞ。試すか?」

そのまま拓也は芽衣を抱き上げ、寝室へ消えた。

ドアの外。

結奈は部屋の前に立ち、耳をぴたりと扉へ寄せた。中の声を一言でも拾おうと息を殺す。

背後で、聞き覚えがあるのにどこか遠い男の声が落ちる。

「結奈?」

結奈はびくりとして振り向いた。

そこにいたのは新谷浩市。

芽衣の実兄で、新谷家の四男。関係は薄い。それでも前世の結奈は、浩市だけは「少なくとも公平な人間だ」と思い込んでいた。新谷奈津子や芽衣みたいに、露骨に踏みにじってくるタイプじゃない――そう信じていたのに。

結奈は声を潜める。

「浩市兄さん……どうしてここに?」

浩市は眉をひそめ、叱るような口調になる。

「出張から戻って、部下を部屋に入れたところだ。今日は芽衣の誕生日だろ。家にいないで、こんな場所で何してるんだ」

結奈の表情が一気に冷える。

何も説明していないのに、まず説教。胸の奥が、すっと冷たくなった。

結奈は言い返す。

「家は人だらけ。私一人いなくても困らないでしょ」

浩市は言葉を重ねる。

「結奈、母さんから電話があった。お前、変わったってな。自分勝手で、わがままで、家の恥を大きくしようとしてるって」

一歩、距離を詰める。

「俺はずっと、お前が一番おとなしくて、聞き分けのいい子だと思ってた。どうした? 欲しいものがあるなら、母さんがくれないなら俺が――」

結奈は睨み返した。

「私のどこが自分勝手なの」

聞き分けがいい?

前世、新谷家はその言葉で結奈を縛った。反抗させないために。押しつけるために。

浩市が結奈の腕を掴み、引っ張る。

「もうやめろ。今すぐ帰るぞ。客の相手が残ってる」

結奈は乱暴に振り払う。

「帰らない! 私は芽衣のことで来たの」

浩市は苛立ちを隠さず声を荒げる。

「余計なことするな。盗難の件で冤罪? 家族だろ。いつまでも根に持つな。さっさと帰れ。恥さらしだ」

結奈の脳裏に、ひとつの案が閃いた。

焦ったふりをして、声を震わせる。

「芽衣が大変なの。騙されてこの部屋に連れ込まれて……襲われそうになってる」

証拠を押さえられるか、不安は消えた。

浩市を使えばいい。

浩市の顔色が変わる。

「……は?」

結奈は畳みかけた。

「浩市兄さん、早く! もう何分も中にいる!」

浩市は真偽を確かめることもなく、勢いよくドアを蹴った。

ガンッ——!

寝室の奥から、艶めいた喘ぎ声。

「芽衣!」浩市が怒鳴り込み、寝室へ駆け込む。

次の瞬間、艶めいた声がぷつりと途切れた。

衣服も乱れた新谷芽衣が、山口拓也を突き飛ばす。拓也は青ざめてベッドの上で起き上がり、顔いっぱいに狼狽を浮かべていた。

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