第5章 抱きしめて私に食べさせる
自分の方へと倒れ込んでくる女を見て、鷹宮剛は無意識に手を伸ばしかけたが、すぐに引っ込めた。彼女の上半身が自分の脚の上に倒れ伏すのを、なすがままにさせておく。
背後から迫る危険な気配を瞬時に感じ取り、朝霧和音はすぐさま身を起こそうとしたが、鷹宮剛にぐっと押さえつけられた。
「ベイビー、俺のことが好きなのは知ってる。さっきは俺が悪かったよ、辛い思いをさせて。許してくれるだろ、ん?」
まるで二人がどれほど親密であるかのように、一言一言がねっとりと絡みつく。
言い終わると、鷹宮剛はゆっくりと手を伸ばし、彼女を床から立たせた。
背後からの視線を感じながら、朝霧和音は目を伏せてそれを避ける。冷や汗がぽたぽたと床に滴り落ち、苦痛は極みに達していた。
鷹宮剛の伸ばした手は空を切る。思わず眉をひそめた。
この女、思った以上に桐生瑛を恐れているらしい。
「俺がいるんだ。桐生判事がお前をどうこうできるわけがない。立て」
鷹宮剛は再び手を差し伸べた。
朝霧和音の瞳に、一瞬の躊躇がよぎる。
個室にいる者たちの二人に対する態度からして、この男は桐生瑛と互角の身分なのだろう。
もしかしたら、本当に彼の庇護を求められるかもしれない。
その考えが芽生えた瞬間、背後から桐生瑛の皮肉めいた声が響いた。
「鷹宮の若旦那は、少々手を伸ばしすぎではないか。そんな暇があるなら、まずはご自分の尻を拭かれたらどうだ」
「あるいは、当事者に聞いてみることだな。あんたの庇護が必要かどうかを」
桐生瑛がことさら強くもなくグラスを置く。ガラスのぶつかる音が、朝霧和音の耳にはひどく突き刺さるように聞こえた。
彼女は桐生瑛という人間をよく知っている。
もしここで態度をはっきりさせなければ、彼は次の瞬間には彼女の過去を暴露するだろう。
たとえそれが偽りであったとしても、悪意ある教唆犯を雇ってくれる場所などあるだろうか。
ましてや、ここで働いているのは女ばかりだ。
朝霧和音にとって、この仕事を見つけることすら困難だった。もし彼女たちに自分の罪名を知られたら……。
自分の居場所がどこにもなくなってしまう。想像するだけで恐ろしかった。
「ありがとうございます、鷹宮の若旦那」
鷹宮剛が口を開く前に、朝霧和音は二人の距離を開け、恭しく礼を述べた。
「確かに私には桐生判事に対して申し訳なく思う点がございます。ですが、私のために口添えくださり、ありがとうございました、鷹宮の若旦那。一杯お注ぎいたします」
そう言うと、朝霧和音は振り返ってまたグラスに酒を注ぎ、飲もうとする素振りを見せた。
鷹宮剛は微妙な眼差しを向けると、さっと彼女の手首を掴んだ。グラスはあっという間に彼の唇のそばへと運ばれる。
「店のオーナーはお前に教えてないのか? こうやって客の機嫌を取るもんだって」
「さっきみたいに俺の膝に座って飲ませてくれたら、もっと嬉しいんだがな」
朝霧和音は固まった。
気のせいだろうか。鷹宮剛が自分を見る目には、何か別のものが含まれているように思える。
彼女が呆然としている数秒の間に、鷹宮剛は彼女のグラスの酒をぐいと飲み干し、それから挑戦的に隣の男へと視線を向けた。
「やはり、綺麗な女が注いだ酒は甘いな。桐生判事は味わったことがないのでは?」
場の空気は一瞬にして凍りついた。
皆が顔を見合わせ、ただならぬ雰囲気を感じ取っている。
ただ、二大巨頭が火花を散らしている状況で、他の者たちが口を挟めるはずもなかった。
不意に携帯電話の着信音が個室に響き渡る。
一同はまるで大赦を得たかのように、一斉に音のする方へと視線を向けた。
桐生瑛が冷たい顔で電話に出る。
静まり返った個室に、か細い女の声が微かに聞こえてきた。
「瑛くん、こんなに遅くまで、まだ帰ってこないの……?」
皆は納得したような表情を浮かべた。
家の人が電話で探りを入れてきたのだ。
三年ぶりに桜庭依々の声を聞き、朝霧和音のただでさえ青白い顔は一層色を失い、思わず声もなくえずいた。
あの日、桜庭依々はまさにこのような声色で、桐生瑛に自分のことを訴えたのだろう。
それが、彼女の全ての苦難の始まりだった……。
電話の向こうでさらに何かを話しているようだったが、朝霧和音の耳には一文字も入ってこなかった。
桐生瑛が電話を切り、無表情のまま立ち上がって席を立つまで、彼女の意識はそこにはなかった。
鷹宮剛は脚を組み、まるで戦に勝った将軍のようだ。
「忘れるところだった。桐生判事はとっくに主持ちの身だったな。外の売れ残りに目が行くはずもないか」
「桜庭さんがまた病気で? それならさっさと帰って看病してやれよ。俺の案件で煩わせることはない」
桐生瑛は彼を一瞥したが、取り合うことなく、朝霧和音の姿に数秒視線を留めてから、大股で個室を出て行った。
桐生瑛が去ると、個室の空気はすぐさま活気を取り戻した。
「面白い。この女、一体あの方に何をしでかしたんだ? あいつが女にあんなに無慈悲なのは初めて見たぞ」
「お前に聞いてるんだよ。桐生家の若君に何をやらかした? 口が利けないのか?」
鷹宮剛もまた、意味ありげに顎を撫でている。
「見かけによらないな。大したもんだ、あの桐生判事を怒らせるとは。話してみろよ……」
鷹宮剛が言い終わらないうちに、朝霧和音はふらふらと床から立ち上がった。
「失礼します」
曖昧に二言だけ残し、朝霧和音は吐き気を堪えて口元を覆いながら個室を飛び出した。
強い酒を飲み過ぎて、胃は元々ひどく不快で、五臓六腑が抗議の声を上げていた。
先ほどの桜庭依々の声が、その苦痛をさらに一層深いものにしていた。
そしてこの男たちが、何度も耳元で桐生瑛の名を口にし、あの過去を無理やり思い出させようとする……。
朝霧和音は、もう耐えられなかった。
個室を出て、よろよろと二、三歩歩いたところで、突然目の前が真っ暗になった。
意識を失う直前、桐生瑛の姿が見えたような気がした。
個室内。
鷹宮剛は女が去っていく姿を見て、無意識に立ち上がり、追いかけようとしていた。
次の瞬間、一人の御曹司が彼を呼び止めた。
「剛さん、まさか本気で彼女に惚れたんじゃないでしょう? あんたの今までの趣味と違うじゃないですか! それに桐生家の若君を怒らせた女ですよ。手を出さない方がいいと思いますけど」
鷹宮剛は眉を上げ、ゆっくりと席に戻った。
確かに、自分は少しおかしい。
彼はそれを、桐生瑛に対する雄としての競争心だと結論付けた。
「桐生判事をからかっただけだ。さあ、飲め」
皆は調子を合わせてそれぞれ酒を注ぎ、口々に鷹宮剛へのおべっかを並べ立てる。
鷹宮剛は気のない返事をしながら彼らと酒を飲んでいたが、その注意は始终として朝霧和音に引きずられていた。
先ほど出て行った時、彼女の様子はあまり良くなかったように思う。
酒宴も半ばを過ぎたが、朝霧和音はまだ戻ってこない。
鷹宮剛は突然、口の中の酒が味気なく感じられ、不機嫌にグラスを置いた。
「俺が指名した女はどうした? なんでまだ戻ってこない? お前——」
彼は先ほど朝霧和音を庇うようなことを言っていたホステスに視線を向けた。
しかし、言葉は口元で方向を変えた。「——いや、いい。俺が直接見に行く!」
そう言うと、彼はすぐに立ち上がって部屋を出て行った。
個室には、顔を見合わせる一同だけが残された。
「嘘だろ? あの女、一体どんな魔力があるんだ? 鷹宮の若旦那、本気になったのか?」
「聞こえなかったのか? 桐生判事への対抗心だって言ってたじゃないか。鷹宮の若旦那が身を固めるなんて、豚が木に登るようなもんだろ」
一同はどっと笑った。
二、三度笑い声が上がったところで、鷹宮剛が暗い顔をして外から戻ってきた。
「鷹宮の若旦那、これは……」
彼の不機嫌を察し、皆は慌てて笑いを収め、恐る恐る尋ねた。
しかし鷹宮剛は、陰鬱な表情で例のホステスを睨みつけた。
「あの女と桐生瑛は、どういう関係だ?」
先ほど外へ出た時、桐生瑛が女を抱きかかえて去っていくのを、この目で見たのだ。
女は彼の腕の中にすっぽりと収まり、抵抗する素振り一つ見せず、個室での態度とはまるで別人だった。
奴らは一体、どういう関係なんだ?
















