第2章
「この卑しい、人間の狂女がッ!」
さっきまでか弱いふりをしていたヴァレリーが、突然金切り声を上げた。
同時に、彼女の背中から半透明の銀色の竜翼がぱっと開く。
「よくも最高守衛長を、そんなふうに侮辱できたものね!」
ヴァレリーは歯噛みしながら叫ぶ。
「黒石島の海に放り込んで、魚の餌にしてやる!」
羽ばたき一つで、彼女は私めがけて一直線に飛びかかってくる。
水の中に落とすつもり?
上等。
私は身構え、自然とファイティングポーズを取った。
前世の記憶が脳裏をかすめる。
あのとき、優しくて繊細な親友のアイラは、この裏表の激しいぶりっ子女と、目の前の無口で不器用な黒竜に、じわじわと追い詰められて枯れ果てた。
でも、私はアイラじゃない。
私はフィオナ。私の辞書に、「泣き寝入り」なんて言葉は載っていない。
ヴァレリーの竜爪が、もう少しで私の肩を掴もうとしたその瞬間――
「やめろ」
低く押し殺した声が、空気を一変させた。
セバスチャンの背で、漆黒の巨大な竜翼が一気に広がる。
その風圧だけで、ヴァレリーの小さな身体は軽々と弾き飛ばされた。
彼女はみっともなく数歩よろめき、やっとのことで踏みとどまる。
私がまだ構えを崩せずにいると、視界の端で黒い影がふっと揺れた。
逞しい腕が、私の腰をしっかりとさらっていく。
世界がくるりと回転し――
気づけば私は、セバスチャンの片腕で軽々と空中に抱き上げられていた。
足が、地面から離れる。
あっけにとられて見上げると。
深い漆黒の瞳が、真っ直ぐに私を見下ろしていた。
「間違いない。俺がお前の夫だ」
言葉そのものは、あまりにもストレートで高圧的だ。
けれど、石像のように硬いその顔立ちと一緒になると、不思議な説得力と破壊力を持つ。
一瞬、本当に言葉を失った。
……やばい。
頬が、じりじりと熱を帯びていくのがわかる。
――ちょっと待て、私、まさか今ので顔が赤くなった?
彼は私を降ろそうともしない。
顔面蒼白になっているヴァレリーなど、一切目に入れていないようだった。
そのまま私を抱きかかえ、黒石島の奥深く――彼の竜巣へと飛び立つ。
数分後。目的地にたどり着いた。
ここはセバスチャンの専用の竜巣だ。
「巣」というより、黒い断崖絶壁に建てられた巨大な古城と言った方が正しい。
セバスチャンが私を地面に降ろした途端、背後から小走りの気配が近づいてくる。
「セバスチャン……待って!」
私は心の中で大きく目を剥いた。
案の定、ヴァレリーが厚かましくも城門をくぐって入ってきていた。
さっき港で見せた凶暴な牙はどこへやったのか。
今はまたか弱ぶった顔をして、涙目でこちらを見ている。
「お手伝いに来たの」
彼女はセバスチャンに向かって、蜜が垂れそうな声で言った。
「フィオナは人間だし、竜島に着いたばかりで慣れてないでしょ。巣も広いし……私が片付けを手伝うわ」
セバスチャンは、特に表情を変えずに小さく頷くだけだった。
ヴァレリーは私を振り向き、勝ち誇ったような冷笑をあからさまに浮かべる。
そして、わざとらしく竜巣の中央にある特大のソファへと向かった。
その瞬間、違和感に気づいた。
空気が変わったのだ。
さっきまで澄んでいた風と雷の気配に、鼻の奥を刺すような、吐き気がするほど甘ったるい匂いが混じる。
――発情期のフェロモンだ。
このクズ女、こっそりとフェロモンを放ってやがる。
私に対する、明らかな宣戦布告。
アイラだったら、ここで悔しさに震えて目を赤くしていただろう。
でも、私は違う。
私は告げ口よりも、力ずくで片付ける方がずっと好きだ。
私は迷いなく、懐から一本のナイフを抜き取った。
ヴァレリーの動きがぴたりと止まる。
彼女は猛然と振り返り、驚愕と警戒が入り混じった目で私の手元を見つめた。
「な、なにをする気?」
聞こえないふりをして、私はナイフを握ったままソファへと歩み寄る。
そして、彼女の悪臭が染みこんだビロードのクッションに、鋭い刃を真っ直ぐ突き立てた。
手首を返し、裂けたクッションを刃先で持ち上げる。
その勢いのまま、さっきあの女が撫でていた毛布もまとめて引っ掛け、宙に放り上げた。
くるりと踵を返し、大きな石造りの暖炉へと大股で向かう。
ヴァレリーのフェロモンがこびりついたそれらを、私はゴミでも捨てるかのように、燃え盛る炎の中へ放り込んだ。
吐き気を催す甘ったるい匂いは、みるみるうちに高温の炎に焼き尽くされていく。
「頭がおかしいの!?」
ヴァレリーが金切り声を上げた。
「それ、極地雪狼の毛皮よ!? この下品な人間め!」
けたたましい騒ぎに、ようやくセバスチャンもこちらを振り向いた。
彼の冷たい眼差しに、明らかな動揺と錯乱がよぎる。
――どうやらこの男、状況をまったく理解していないらしい。
私は彼を無視して、一歩、また一歩とヴァレリーに歩み寄った。
「よく聞け、鱗付きの爬虫類」
身を屈め、声を限界まで低く落とす。
「ここは、私の巣よ。私の巣の中にある匂いは、全部私のものでなくちゃならない」
彼女の目を真っ直ぐに見据え、冷笑を浮かべる。
「次にここで発情なんかして、その吐き気のする匂いを撒き散らしてみなさい――」
ナイフの刃を彼女の頬に沿わせてゆっくりと滑らせ、首筋に覗く銀色の鱗の上でぴたりと止める。
「その銀色の鱗、一枚ずつ、残らず私が引っこ抜いてやるから」
竜巣の中が、死んだように静まり返った。
ヴァレリーの顔から血の気が失せる。
そう、彼女はついに理解したのだ。私が、彼女の思い通りになるようなか弱い女ではないということを。
――私は、正真正銘のイカレ女だということを。
次の瞬間、彼女の瞳がさっと赤く染まり、糸の切れた真珠のように涙がぼろぼろとこぼれ落ちた。
彼女は傍らに立つセバスチャンを見つめる。
「セバスチャン……私はただ、二人の部屋を綺麗にしてあげたかっただけなのに……どうしてこんなひどいことされなきゃいけないの……?」
ぶりっ子のお芝居が始まった。
私は鼻で笑い、ナイフをしまって腕を組む。
上等だ。
さあ見せてもらおうか。この節穴の黒竜が、今度はどう動くかを。
