第2章
渡辺美代はダイニングテーブルの前に座り、手に握った離婚協議書と小切手を見つめていた。頭の中は何も考えてなかった。
高橋隆一の去り際は、まるで重いハンマーで心を打ち砕かれたようだった。涙が止まらず、心には無限の落胆と絶望が広がっていた。かつての甘い思い出と温かさは、今や冷たい氷のように感じられた。
「隆一……」彼女はかすかに呟いた。その声はほとんど聞こえないほど弱々しかった。このような結婚生活が終わるとは、彼女は夢にも思わなかった。高橋隆一との結婚が最初から間違いだったことは分かっていたが、離婚協議書に自らサインする瞬間は、やはり耐え難い痛みを伴った。
「奥様、大丈夫ですか?」田中さんが渡辺美代の様子を見て、心配そうに近づいてきた。
「大丈夫です」渡辺美代は涙を拭い、強引に笑顔を作った。田中さんが心配しているのは分かっていたが、今は一人で落ち着いたかった。
「何か食べ物を用意しましょうか?」田中さんは話題を変えて、渡辺美代の気持ちを少しでも和らげようとした。
「いいえ、外で少し歩きたいです」渡辺美代は立ち上がり、心の中にわずかな苛立ちを感じた。彼女は気分転換が必要で、この息苦しい家から離れたかった。
「では、私も一緒に行きましょうか?」田中さんは心配そうに提案した。
「大丈夫です、一人で行きます」渡辺美代は田中さんをわざと遠ざけ、自分の荷物をまとめ始めた。
離婚した以上、高橋隆一の家に住む必要はない。この場所には彼との思い出が詰まっており、彼女はここから逃げ出したかった。
彼女は衣類を一つ一つスーツケースに詰めた。高価なドレスは持たず、日常的に着る軽い服だけを持っていた。クローゼットに並ぶ高価なバッグに目を向くと、それらはすべて高橋隆一が贈ったもので、一つ一つが家一軒分の価値があった。
しかし、彼女が強盗に遭ったとき、それらは彼女の命を守ることはできなかった。
つまり、彼女の命は家一軒分の価値もないということだ。
なんと皮肉だ。佐藤家の奥様でありながら、家一軒分の価値もないなんて。
これらのバッグはほとんど使っていないで、タグだけ取っていたものもあった。渡辺美代はバッグに特別な興味はなく、必要なものだけで十分だった。しかし、高橋隆一は毎回セックスの後にバッグを贈ることを強く主張した。
だから、これは夫が妻に贈るプレゼントなのか?それとも、客が娼婦に払う代金なのか?
この瞬間、渡辺美代はその違いが分からなくなっていた。
結婚して三年、高橋隆一は彼女の好みさえ知らなかった。
彼は自分勝手にバッグを贈り、渡辺美代が嬉しいだろうと思っていた。しかし、実際には、彼女にとってそれぞれのバッグは、高橋隆一に心から愛されていない証拠だった。
なぜなら、本当にバッグが好きなのは彼女ではなく、山本美咲だったからだ。
渡辺美代は頭を振り、紛れる思いを追い払い、目の前のスーツケースに集中した。
「きっと新しい人生を歩けます」彼女は心の中でそう誓い、元気を出すようにした。
未来は不確かで、ここを離れた後にどこへ行くのかも分からなかったが、彼女は勇気を持って直面する必要があった。
荷物をまとめ終え、渡辺美代は鏡の前に立ち、深呼吸をした。しかし、鏡に映る自分の顔を見た瞬間、せっかく出した勇気がまた消えかけた。
それは彼女にとって非常に見慣れていた顔であり、美しい顔だった。
彼女の顔はまるで精巧な陶器のようで、肌は白く滑らかでとても自然だった。軽く触れるだけで指の跡が残るほどで、高橋隆一はそれを何度も確かめていた。セックスの時、彼は特に渡辺美代の肌に自分の痕跡を残すのが好きだった。
最初は、渡辺美代もそれを楽しんでいた。
彼女はそれが高橋隆一の愛の表現だと思っていたが、後にそれが単なる所有欲の現れに過ぎないことに気づいた。
渡辺美代は鏡の中の自分の顔を見つめ続けた。精巧で均整の取れた顔立ち、明るく魅惑的な狐のような目、柔らかく美しい眉毛、扇のように長いまつげ、桜の花のようにふっくらとした唇……
化粧をしていなくても、渡辺美代の美しさは人々の目を引き、彼女の存在自体が一幅の美しい絵画のようだった。
しかし、渡辺美代はこの顔を憎んでいた。
理由は簡単で、この顔が山本美咲に似ているからだ。
高橋隆一が彼女と結婚したのは、おじいさんに安心させるだけでなく、この顔が大きな理由だったのだろう。
従順で、美しく、そして高嶺の花に似ている。なんて完璧な代役だろう。
そして今、本物の高嶺の花が戻ってきた。彼女という代役はもう必要なくなり、早く出て行って高嶺の花に場所を譲るのが彼女のすべきことだった。
「さようなら、高橋隆一」渡辺美代は静かに言い、目に決意の光を宿した。そして、スーツケースを引いて、この温かさが消えた冷たい家を出ようとした。
その時、階下から激しいノックの音が響いてきた。
いや、正確にはドアを叩きつける音だった。
「ドンドンドン——」
「誰ですか?」田中さんは不満そうに歩み寄り、こんなに乱暴にドアを叩くなんて、礼儀を知らないのかと呟いた。掃除をしていなければ、ドアの埃が落ちてしまうほどだった。
田中さんはドアのピーコールから外を見ると、見知らぬ夫婦が立っているのが見えた。年齢は彼女と同じくらいだった。
「あなたたちは?」田中さんはドアを少しだけ開け、いつでも閉められるように警戒しながら尋ねた。
佐藤家の長年の住み込んでいた家政婦として、田中さんは接客の心得をよく知っていた。普通なら、もっと礼儀正しく、過度に親切でない接待の方法があった。しかし、この夫婦はあまりにも怪しかったので、警戒せざるを得なかった。
その夫婦は、ドアを開けたのが渡辺美代ではなく、こんなに警戒心の強い人だとは思わなかったようで、男は高く上げた手を太ももに下ろした。彼は佐藤家の家政婦であり、高橋隆一を幼い頃から育てた人だと知っていたので、媚びるように答えた。「私は渡辺美代の父です。こちらはお母さんです。彼女に会いに来ました」
田中さんは驚いた。奥様は両親がいたなんて。
結婚して三年、一度も顔を見せたことがなかった。結婚式の時でさえ、この夫婦は現れなかった。
詐欺師だろう……
間違いない!
田中さんはすぐに判断し、不意打ちでドアをバタンと閉め、男の鼻をぶつけた。
「痛い痛い!」ドアを閉めた後でも、田中さんは外で男が鼻を押さえて飛び跳ねる声を聞くことができた。
「ざまあみろ!奥様の両親を偽って、佐藤家を騙そうとするなんて、有り得ない」田中さんは勝利した鶏のように、誇らしげにキッチンに戻った。
今日は奥様の気分が悪いので、美味しいものをたくさん作って、奥様を宥めなければならない。
その時、渡辺美代はスーツケースを引いて階段を降りてきた。
待って……
スーツケース?
「奥様、どこへ行かれるのですか?」田中さんは尋ねた。


































































































































































































